
弱小領主の栗田氏も活路を探った。元は信濃の実力者・村上氏の系列だったが、南朝に付いたり、大文字一揆に加担したり、木曽義仲の天下取り軍団に加わったり、川中島の合戦では武田に付き、善光寺仏を担いで甲府に移住。武田氏滅亡後は、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉と結託した。
43年間も流浪した栗田氏は善光寺仏とともに長野に帰郷したが、「大事な、みんなの財産である善光寺仏を持ち去った不埒者」と非難され、復活はならず、一族の男女は縁をたどり東北の諸藩を再び流浪した。中には酒田藩主の側室になった女性もいた。
主人が消えた栗田の人々は「館跡をどうしよう」「わしらの氏神様を祭ったらどうだ」「岡田=山王=の日吉さまを持って来たらいい」ということで、「水内惣社日吉大神社」としたようだ。「水内惣社」とは、栗田氏が一時期とはいえ北信濃の大半を領知した名残だろう。 栗田神社には近年まで堀が残っていたが、今は埋め立てて遊園地になった。
栄枯盛衰を繰り返した栗田氏の後日談が面白い。戸隠神社の別当を栗田氏と争った戸隠の勧修院=現久山家=の話だ。
「戸隠の栗田さんは流れ流れて水戸藩に奉職し、光圀公=黄門さん=の『大日本史』を執筆した人もいるとか。ご子孫も各地にいるらしいのですが、ある方は旧通産省の高級官僚になりました。毎年、ご先祖の墓参り(戸隠二条地籍)に来られるのですが、お前たちは領民、家来だったと大威張りなので、みんな辟易していました。退官した後は、だいぶ謙虚になりましたが...」
(2010年1月30日号掲載)
写真=居館跡の面影が残る境内