
善光寺平周辺の平坦部では珍しい古墳で、高田・古牧地区の住民や緑ケ丘小学校、桜ケ岡中学校が自慢するランドマークにもなっている。昨年秋、市が周辺を含め今後10年ほどかけ、総事業費28億円で公園として整備する方針を決めた。
「あの桜の小山は誰かのお墓ですか?」
古墳の通例として誰のものかは不明だが、口伝がある。
一帯は天皇家に連なる有力者が統治して農業を指導していたが、亡くなったので弔い、「王塚」とした、という。
全長46メートルの前方後円墳だが、市街化で侵食され東側がだいぶ崩れている。全山が桜で有名な松本市並柳の国史跡「弘法山古墳」は全長66メートルだから、それよりふた回りほど小さい。
かつて信州史学の泰斗・栗岩英治が発掘調査を頼まれたが「何でも掘ればいいというものじゃない」と諫めたという。地域住民の祖先かもしれない...崩れた墳墓を、村人たちが一輪車で土を運び修復する1981(昭和56)年の写真が残っている。
江戸時代の調査データも現在の規模と変わらない。植えられている桜は古木だが、大木ではない。住民が補植をして大切にしてきたからだろう。
川中島合戦の時には戦場になり、戦死者が葬られたとの伝承もある。
付近の田畑は碁盤目に区割りされ、条里制が敷かれた跡がうかがえる。
昨年秋亡くなった郷土史家の小林計一郎さんは「古墳は条理に従って築造されている」と解説していた。これまでの出土物は勾玉が2個だけ。条理を施行するには強大な権力が必要だ。葬られたのは稲作を指導した開拓者との推測もある。

(2010年2月20日号掲載)