
「諏訪社」を名乗る神社は全国に約6500社もある。東京都内で有名なのは、日暮里駅近くの台東区の諏訪神社で「新堀・谷中の総鎮守」の扁額を掲げる。1322(元亨2)年に信州の諏訪大社から勧請した。江戸川区の諏訪社も知られる。
諏訪の神はもともとは農業神だったが、狩猟や戦勝祈願の神となり、徳川武士の尊崇を集めたので江戸庶民も倣い、諏訪信仰は江戸の町々に広がり社殿が建てられた。面白いことに、張り子の龍が舞い踊る長崎のおくんち祭りも諏訪社で、氏子は中国人が大半だ。
長野県内の諏訪社は1200以上もある。隣の新潟はもっと多く1700社近い。それなのに、本拠の諏訪市にはたった18社。岡谷に15、松本は75だが、長野市にはなんと180社もある。
みな諏訪大社と同じく建御名方命(たてみなかたのみこと)や八坂刀売命(やさかとめのみこと)を祀る。長野ではうち50社以上が御柱行事を行い、境内に2本ないし4本の柱を建てる。諏訪大社のモミの巨木にはかなわないが、電柱ぐらいの太さの木を調達して曳き回す。
具体的に挙げると、湯福、妻科、武井の各神社や、城山の建御名方富命彦神別(たてみなかたとみのみことひこがみわけ)神社など、善光寺を囲む著名な神社はみな諏訪社だ。
善光寺平になぜ、これほど諏訪神社が広まったのか-。答えは簡単。善光寺を建立したのは、諏訪大社を奉ずる金刺氏一族であったからだ。善光寺の仏さまの守護神として、各所に諏訪社を鎮座させることになった。信濃最大の豪族が「信濃一の宮」としての諏訪信仰を広げた次第だ。
では、神様と仏様はどうして仲が良いのか? 神仏習合は日本独特の宗教観だ。原始神道が支配していた日本に後から仏教が入ってきた時には、朝廷を二分する宗教論争になった。だが、中国に留学した最澄や空海の時代には、最新の仏教理論を在地の神と上手に融合させようという流れになった。
高野山に行くと、林立する古今の著名人の慰霊碑や墓が、みな鳥居を伴っているのに驚く。神仏を仲良くさせて使い分けるというのが日本人の庶民文化・習俗にもなった。あの世の安穏は仏に、現世の利益は神に祈るというわけだ。
北信地方の御柱では小川村の延喜式内社・小川神社が「北信随一」といわれる。市内では長池神社も区民総参加で盛大だ。柱も電柱よりグンと太く、子どもたちが馬乗りにできる。市中の里曳きは交通事情で省略しているが、広い境内で行われる建御柱は勇壮だ(5月3日)。東和田の和世田神社でもにぎやかに挙行される。
市街地では武井神社を当番とする御柱が、中心市街地19町の参加で9月26日(日)に予定されている。江戸時代から続く伝統があり、時代絵巻の行列が見ものだ。武井神社では本殿の新築祝いが5月に行われるので、御柱の詳細は追って発表される。
(2010年3月27日号掲載)