
参勤交代で通り掛かった加賀百万石の13代藩主・前田斉泰(1811〜84)の気分は優れなかった。
幕末の万延から文久、慶応にかけ、日本国は黒船の来航で騒然としていた。ところが、徳川に次ぐ大藩でありながら、前田家は埒外にあった。財政窮乏の上、人材がいない、情報が無い、戦略が無い。無い無い尽くしの百万石だったのだ。
信濃の弱小大名・松代藩でさえ、佐久間象山という先見者を擁して幕府に進言を繰り返し、長州や土佐の志士・坂本龍馬らが出入りしているというのに...。斉泰はこのころ、「ペリーの開国要求には、応諾するふりをして受け入れを引き延ばし、国力を増したら自主外交に転じよう」と述べるぐらいだった。
さらに徳川11代将軍・家斉の娘・溶姫を押し付けられ、 藩政もはかばかしくないため、参勤交代の折には「このエノキのように、天空を堂々と切り開く大木になりたい...」と、力と自信を望む殿様であったようだ。

その加賀にも"大木"はいた。北前船を駆使した豪商で「海の百万石」とも称された銭屋五兵衛だ。帆船で豪州や米国東海岸にまで到達したという説があるほどの逸材だったが、新田開発に絡む冤罪で獄死した。銭屋も牢死する夏(1852年)、命請いの善光寺参りの途上、このエノキを見ている。
稲田のエノキは1972(昭和47)年、市の文化財に指定された。落雷(神霊降臨)の形跡があるが、樹皮の生命力で今も樹勢は旺盛だ。樹高は20メートル近く、目通りの径は1メートル余。かつては根元に熊野社が祭られていた。
新幹線が金沢まで開通(2015年の予定)すれば、上京の際には長野駅に着く直前に車窓から巨樹の影を見ることになるだろう。
(2010年5月15日号掲載)