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02 生い立ち〜祖父長作の生まれ代わりと期待され〜

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 長野日本大学中学・高校の生徒会は9月30日、県赤十字血液センター(南県町)に献血パンフレットを寄贈しました。

 同校は7月の文化祭「桜花祭」で毎年行うなど、献血に熱心に取り組んでいます。パンフレット「知ってほしい 血液のこと」は、桜花祭で生徒会が堰i営業時間)したカフェの収益金で2万5000部余を印刷。若者に献血を呼び掛ける内容で、血液センターが行う啓発活動に使われます。

 この日は、保健委員長の荒井伽奈(かな)さん(高3)ら3人がセンターを訪れました。宮川幸昭所長は「若い人に献血してもらえるよう、パンフレットを有効に使いたい」とお礼を述べ、生徒に感謝状を贈りました。

 私の祖父の名は「長作」で、どうやら私の「長」はそこに由来しているらしい。この長作さんというのが、ちょっとした伝説の人のようになっていて、今の柳原に事務所を移転したとき、彼について本を書いたという人も現れたくらいです。

 長作は新潟県新井の農家の二男坊だったので、自分で何かしなくちゃいけないということで、製糸業で栄える須坂に出て来たそうです。ここで棟梁として頭角を現し、長野郵便局の建設の仕事を、東京の業者も参加した入札で見事に取ったんですよ。

 それで須坂から長野市に千曲川の橋を渡って通っていた。当時は橋も木造で狭く、すれ違う時は一方がバックしないとなりません。あるとき祖父が乗った満員の乗り合いバスみたいなのがバックしたところ、そのまま千曲川に落ちちゃったんです。

 大変な事故で、消防から何から出動して救助活動をしたそうですが、助かったのは2人だけ。4人亡くなって祖父もその一人でした。こちらで事務所を開設したときには、その事故のことを知っている人がまだ何人かいました。

 私が生まれたのは祖父の死から2年後の昭和2(1927)年。「宮本組」を率いて勢いのある真っ最中に不慮の事故で亡くなってしまった長作さんの生まれ代わりだ、と期待されたようなことを聞いたことがありますね。

 私の親父は長作の二男で逓信省に勤める役人でしたが、事故の後、東京から呼び戻されて兄と共に長野郵便局建築の仕事を引き継ぐことになります。

 当時の長野では建築家といっても、まあ学校を設計する程度で、そう難しいことをやるわけじゃないし、人数だって県内に10人とか、そのくらいです。私の父は早稲田の工手学校を出てから建築を数年勉強して難関の逓信省に入り、営繕課にいましたから、今でいう構造計算から何から全部できた。父の当時の同僚たちは後にみんな立派な地位に就きましたね。

 結局、父が担当することになった長野郵便局の設計が評判になって次々と仕事が舞い込むようになります。そんなわけで、昭和初期という、まだ設計士なんて珍しい時代に、須坂に建築設計事務所を開設するわけです。

 自宅の2階が事務所で、多い時には7人もいた所員がいつも設計図を描いている環境の中で私は育ちました。遊び場も事務所ですからね。今考えても、もう建築家になる以外の道はないような、そんな家でしたね。

 今は大型図面の複写は大型コピー機に外注できますが、当時は全部うちでやっていました。紙焼き用の紙はわざわざ長野の紙屋さんまで買いに行ったり、使う薬剤も長野から取り寄せでした。その薬剤を紙に塗るなんて作業は、小学校高学年になると私もしょっちゅうやっていました。

 青写真を焼くのは大変時間がかかるので、みんなでやるんです。大きな板に図面を張ってガシッと締めて、薬に浸して出して洗って干して。母がいればやるし、ご用聞きの人がいれば手伝ってもらったりもしていました。

 絵でパースを描くとか、これは矩計りだとかエレベーションだとか、何度か見ているうちに分かるようになって、小学校の宿題で図面が出たときなんか、きれいに描いていって褒められました。
(聞き書き・北原広子)
(2008年10月18日号掲載)

=写真=腕利きの棟梁だった祖父の長作

 
宮本忠長さん