私は2歳上の姉と2人の妹という、女ばかりの中の男1人で育ちました。当時のことだから、普通だったら長男で威張れたのかもしれないけど、姉が上で偉そうにしているし、下には妹が控えているしで、数にはかないません。仲間がいないと完全にやられちゃうから、一番ばかにされるわけです。男のきょうだいが欲しいとずっと思っていました。
そしたら弟ができました。ただ13歳も離れていて、もう一緒に遊ぶような年齢でもなくなっていましたが、うれしくて結構面倒みましたよ。この弟は今、宮本忠長建築設計事務所の副所長をやっています。
得意な絵褒められ
そんなわけで、子どものころは何をするにも女の人が主体。テレビもないし、言葉ではかなわないしで、一人で絵を描いていることが多かったです。
家の近くに宣教師が開園した小百合幼稚園に1年間通ったときも、覚えているのは、絵を褒められていつも廊下に張り出されていたことです。それから、通園途中に放し飼いの犬がいてほえられるのが怖くて怖くてね。
家でも、水彩でリンゴかなんか描くと、それを出入りしていた今は建設会社の前身の材木屋さんが見て「これはうまい絵だ。ウチの息子は絵が下手だから持っていってやる」なんて言っていました。
子どものころの私は気管支が相当悪かったようで、冬になると必ず風邪をひいて体調がすぐれませんでした。でものどだから、うちにいれば治ると病院には行った覚えがありません。春になるとまた元気になるということを繰り返していました。
肺炎で1カ月休む
一番つらかったのは小学2年から3年になる時に、肺炎で学校を1カ月くらい休んだときです。もう助からないと思われたそうですよ。当時はペニシリンなんてありませんからね。ところが、どうやら持ちこたえて命は助かったんですが、立てないんです。半月くらい這(は)っていたことはよく覚えています。
小学校のときの成績は2番目か3番目くらい。学校でも絵は得意で、美術の先生に時々教わったりもしていました。戦前のことですから、男女が一緒だったのは小学校までです。最近まで同級会をやっていましたが、小学校は女性もいてちょっと華やいだ雰囲気がありましたね。
学生時代は戦争で先が見えないし、戦後はひたすら建築家としての修業。いわゆる青春時代なんてなかったようなものです。私にとっての青春みたいなものは、東京から長野に戻ったころかもしれません。
当時は小学校で学業を終える子もいました。クラス40人のうち進学は女子だと数人いればいい方で、男子は中学に行くのが1人か2人で、あとは高等科。2年間高等科に通ってから社会に出るわけですね。中には闇市をやるのがいたりね。戦争の様子がおかしくなってきたせいか、高等科にいったん入ってから中学に編入して来るのもいました。
私は須坂中学に進みました。親が特に教育熱心だったとは感じなかった。家が仕事場で、みんなで手伝っていたようなものだから、勉強しろって言うわけじゃないしね。それでもきょうだい全員が高等教育を受けられたのだから、恵まれていたのだと思います。
そしたら弟ができました。ただ13歳も離れていて、もう一緒に遊ぶような年齢でもなくなっていましたが、うれしくて結構面倒みましたよ。この弟は今、宮本忠長建築設計事務所の副所長をやっています。
得意な絵褒められ
そんなわけで、子どものころは何をするにも女の人が主体。テレビもないし、言葉ではかなわないしで、一人で絵を描いていることが多かったです。
家の近くに宣教師が開園した小百合幼稚園に1年間通ったときも、覚えているのは、絵を褒められていつも廊下に張り出されていたことです。それから、通園途中に放し飼いの犬がいてほえられるのが怖くて怖くてね。
家でも、水彩でリンゴかなんか描くと、それを出入りしていた今は建設会社の前身の材木屋さんが見て「これはうまい絵だ。ウチの息子は絵が下手だから持っていってやる」なんて言っていました。
子どものころの私は気管支が相当悪かったようで、冬になると必ず風邪をひいて体調がすぐれませんでした。でものどだから、うちにいれば治ると病院には行った覚えがありません。春になるとまた元気になるということを繰り返していました。
肺炎で1カ月休む
一番つらかったのは小学2年から3年になる時に、肺炎で学校を1カ月くらい休んだときです。もう助からないと思われたそうですよ。当時はペニシリンなんてありませんからね。ところが、どうやら持ちこたえて命は助かったんですが、立てないんです。半月くらい這(は)っていたことはよく覚えています。
小学校のときの成績は2番目か3番目くらい。学校でも絵は得意で、美術の先生に時々教わったりもしていました。戦前のことですから、男女が一緒だったのは小学校までです。最近まで同級会をやっていましたが、小学校は女性もいてちょっと華やいだ雰囲気がありましたね。
学生時代は戦争で先が見えないし、戦後はひたすら建築家としての修業。いわゆる青春時代なんてなかったようなものです。私にとっての青春みたいなものは、東京から長野に戻ったころかもしれません。
当時は小学校で学業を終える子もいました。クラス40人のうち進学は女子だと数人いればいい方で、男子は中学に行くのが1人か2人で、あとは高等科。2年間高等科に通ってから社会に出るわけですね。中には闇市をやるのがいたりね。戦争の様子がおかしくなってきたせいか、高等科にいったん入ってから中学に編入して来るのもいました。
私は須坂中学に進みました。親が特に教育熱心だったとは感じなかった。家が仕事場で、みんなで手伝っていたようなものだから、勉強しろって言うわけじゃないしね。それでもきょうだい全員が高等教育を受けられたのだから、恵まれていたのだと思います。
(聞き書き・北原広子)
(2008年10月25日号掲載)
=写真=子どものころ、家族と一緒に撮影
(2008年10月25日号掲載)
=写真=子どものころ、家族と一緒に撮影