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04 旧制須坂中学〜「建築家を志望」と市川健夫君が記憶〜

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 私が旧制須坂中学校、今の須坂高校に入学したのは昭和15(1940)年ですから、第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)して間もなくのころです。中学に入ったときに思ったのは「みんなすごいやつきりだな」ということですね。須坂中学というのは、長野電鉄の河東線(現屋代線)沿いの人が入学してくる。つまり千曲川の東の方ですね。

 自己紹介するのにも「おらあ、ドコドコだい」みたいな感じで、言葉遣いが悪いというか威勢がいいというか、町の者とちょっと違っていましてね。それがすごいと感じたわけですが、成績だってクラスで1番、2番のやつだから、やはりみんな優秀なんですよ。町の者の方が少数派でしたね。

絵を描く時代でなく
 ずっと絵を褒められてきましたが、中学でやめてしまいました。工作の時間くらいはあっても植林に変更になったり、園芸試験場みたいなことをしたり、要するに絵だとか、文化的なことをしているような時代じゃなかったということです。

 剣道部と柔道部があって、私は剣道部に入りました。だいたい卒業する時にはみんな初段くらいにはなる。それから、当時では珍しいプールが須坂中学にはあって、水泳が正規の科目になっていたから、必ずやらなければならない。それまで泳ぎなんてできませんでしたが、そうもいっていられずにジャボンと入る。入っているうちにだんだん泳げるようになって、一応はみんなと一緒にできるようになりました。

 重量挙げみたいなのもありましたね。どこの中学にもあったんじゃないでしょうか。米俵を担いで走るというのもありました。私はどれも得意というわけじゃないですが、いずれもクリアして、中級くらいまではいけたんじゃないでしょうか。ちょこちょこっと、結構うまくやる方だったんです。

 印象に残っているのは予科練に行った連中が数人いたことです。中学3年の終わりか、4年の初めころだったと思いますが、その連中と一緒に学校のすぐ近くの鎌田山に登って、いろんな歌を歌いましてね、記念撮影もしました。彼らは戦争で何人か死んでしまいました。

 海軍兵学校や陸軍士官学校に行くのが20人くらいいた。東大や早稲田に入ったのもいましたね。東大には数人入って、みんな立派になっています。
早稲田を勧められ

 先生もなかなか立派な人が多くて、私に「おまえ建築やりたいんだろ」と早稲田を勧めてくれたのは、東大仏文科出身の先生でした。とにかく戦争のこういう時代だから、早く卒業した方がいいだろうと専科を勧められました。

 実は、担任の先生から将来の希望を聞かれ、私が「建築家になりたい」と答えたということを覚えていたのは、同級生だった市川健夫君なんですよ。私が長野に戻ったときに、地理学者として業績を挙げていた市川君と対談するテレビの企画があって、そこで言われたんです。

 その当時は「軍人になりたい」と言う人が多いし、軍人と言っておけばいい時代だったんですよ。その中で市川君は愉快な人で「地理学者になりたい」と中学2年くらいで言うわけです。地理学者なんて、すごいこと言うなあって感じでした。

 その時に私は「建築家になりたい」と言ったらしい。市川君はそういう細かいことを覚えている記憶力がすごい。
(2008年11月1日号掲載)

=写真=旧制須坂中学での記念撮影、上部の桜マーク内が私
 
宮本忠長さん