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05 九死に一生〜飛行場で作業中米戦闘機が直撃〜

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 旧制須坂中学校時代の同級生の市川健夫君は「建築家なんて珍しいことを言うヤツだと思って覚えていた」そうですが、私にしたら「地理学者なんてスゲエこと言うなあ」と印象に残っています。今ではお互いに中学時代の希望通りの道を歩んでいるのですから不思議なものです。

 今、建築家になりたければ大学でも専門学校でも学べて、建築士は国家資格として制度が整っていますが、当時はそんな言葉を使ってもなかなか分かってもらえず、大工か棟梁かと思われたものです。建築科を設置している学校も数校しかありませんでした。

 早稲田の専門部へ
 東大と京大と、私立では早稲田と日大。戦時中だから専門部で早く社会に出た方がいいという先生のアドバイスでしたが、東大と京大には専門部がないんですよ。それじゃあ、早稲田に行こうと思ったわけです。

 試験は、まあ、ありましたが、実は受験希望者はそんなに多くないんです。みんな海軍とか、軍隊の方に行ってしまうからです。そんな時代でしたね。それですんなり早稲田大学の専門部建築学科に入りました。昭和20(1945)年の春です。

 ところが大学の入学式なのに、軍隊の入隊式みたいなものです。入るとすぐに動員で授業どころじゃない。宇都宮の東部航空総本部に行かされて、飛行場で細かいいろいろな解体作業があるから、それをやれって言うわけです。

 やれって言われても、なんだかバカみたいな話ですが、行くしかない。半地下みたいな所にある解体工場に入って、悲壮な感じで作業をしていました。

 一番ひどかった日は今も忘れられない7月30日です。暑い日でした。ものすごい数、250機もの戦闘機が飛んできてパチパチとやるわけです。どこから来るのか見ていると、まず第一派が飛んできて機銃掃射。立派な校舎がまずやられました。次は我々の工場がやられる番です。

 最初はロケット弾で、これはドカンと大きな響きでね。夢中で防空壕に入りました。お互いがバラバラにね。その防空壕がまた大きくて、階段がずっと続いている。先まで入った方がいいだろうと入っていったら、どうやら第一派は去ったらしいので、いったん防空壕を出ました。

 そうしたら第二派がまた飛んで来るんです。それをよく見ていたら、どうも遠い所よりも近い方が良さそうに思ったんです。ふと見たら近くに小さな穴が二つあるから、一緒だった友達と二人でそこに飛び込んだ。途端にバリバリバリと、先の方が直撃されちゃった。さっきまでいた辺りですよ。

 死んだと思われて
 だから、私はみんなにもう死んだと思われていた。ところが後から出ていったものだから驚かれました。兵隊さんたちは亡くなりました。私たちが助かったのは奇跡でしかありません。クラスがだいたい70人から80人で、そのうちの50人くらいは動員されていたのですから。

 こんなことがあったから、私はもう7月30日という日はあんまり...。あの時、第一派の時はそんなに心配じゃなかった。でも第二派の時は、心臓がドキーン、ドキーンとする音が自分でも分かって、本当は外の音の方が大きいのに、耳をふさいでいるわけでもないのに、こう、心臓の音だけが聞こえて、ああ、まだ生きているんだと。これが18歳の時でした。
(聞き書き・北原広子)
(2008年11月8日号掲載)

=写真=早大専門部に入学した時の私
 
宮本忠長さん