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06 人口増が市街地化を促進

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 長野市の人口動態を見ると、明治30年の市制施行の年に比べ、牧野市政下の1916(大正5)年は1万980人増え、37%増となりました。その要因は、全国的な資本主義経済の成長発展の時期であったことに加え、長野地域が県庁所在地という特殊条件の下にあったことに起因すると考えられます。

 すなわち、官公署である県庁、市役所、郡役所、裁判所、郵便局、刑務所、税務署、警察署、測候所、大林区署、税務監督局、電信局、県会議事堂など、また文化施設としては各学校はもちろんのこと信濃毎日新聞、信濃教育会、長野新聞、信濃日々新聞、日本赤十字長野支部病院、信濃図書館、長野県農会などが、明治から大正初期に次々と長野地域に設置されました。

 この時期に長野市の人口増は全体として顕著ですが、これを町別に見るとその増減に差異が見られます。人口増加が顕著な町は1576人増の石堂町、564人増の新田町、1003人増の南県町、369人増の問御所町、1932人増の千歳町、346人増の権堂町、926人増の箱清水、940人増の西長野であります。

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 これらの町は、概して前回記述した新設または改修の道路に沿った所に位置しています。また、長野駅や県庁に近い町も人口増となっています。

 谷口集落である西長野町などは道路の改良とともに後背地との関係が密接になり、それが人口増の原因と考えられます。

 一方、次の町は人口が減少しています。
 大門町 161人減
 西町  103人減
 横町  5人減
 旭町  308人減
 東町  118人減
 立町  114人減
 岩石町 252人減
 新町  9人減
 河原崎 17人減
 伊勢町 8人減

 減少している地域は、旧善光寺町の中心部と旧県庁周辺に集中しています。

 人口の増加はいきおい市街地化を促進します。長野市の場合、中心の西部地域は概して官庁・文教地域・住宅地域として市街地化が促進され、南部地域は交通の要衝・長野駅を控えて商業地として市街地化されていきました。その変遷は1879(明治12)年と1924(大正13)年と比較すると歴然たるものがあります。

 (元『長野市誌』近現代史部会長)

『長野商工会議所60年史』の図に加筆