記事カテゴリ:

06 終戦・戦後〜家族と無事に再会再び早稲田へ戻る〜

06-miyamoto-1115p.jpg
 死にかけた空襲から半月で終戦でしたが、その間には変なことがいろいろありました。終戦の日だったか、ちょっと前だったか、夜の8時ころに竹槍を配られ「これで突っ込め」と言われた時には、参ったなあと思いましたよ。「今突っ込んでもしょうがない。役に立たない」なんて言えませんからね。

 3時か4時ころにまた人が来て「早稲田の学生はすぐに家に帰れ」と言うんです。そんな時間に急に言われても、どうしようもない。あと早稲田に戻れとか、壕の方へ行って働けというデマも飛びました。

 壕に入ったら命はないです。みんな犠牲になっていたでしょう。とにかく私は早く故郷に帰りたかった。早稲田にも「我々だけは帰ろう」と言ってくれる先生がいてよかったです。1回間違ったら駄目になっていました。

 1人汽車で高崎へ
 もっとも、家に帰ろうということで皆で出ても東京出身者が多いですから、私は1人で汽車に乗って高崎まで来て、その先の汽車がないからそこで1泊しました。翌日、汽車が来たからよかったですが、たとえ来なくても二度とあの飛行場の方向には行きたくないと思いました。

 私の年代はちょっと早く生まれていたら学徒動員。我々の同僚でも戦場へ行ったのが1人いたけど、幸い助かった。1級上だと徴兵に引っ掛かって駄目だったとかね。本当に不思議なものです。

 須坂の家に戻って無事家族と再会したわけですが、もう行く所がありません。早稲田からは、また通知を出すから故郷に戻っているようにという連絡があっただけで先のことが分からない。代用教員でもやるかと考えているうちに、早稲田から急に来るようにという連絡がありました。それが9月の下旬ころですから、意外に早いなと感じました。

 うれしかったです。友だちに再会しても、ただうれしかった。昭和20年から21年というのは、私はただうれしかったんです。どこに行っても検閲がないのですから、目的もなく歩き回ってみたり、住んでいた東中野から新宿の方に出てみたり。それだけで楽しいのです。

 友達とも信頼し合えるというか、連帯感みたいなものを強く感じました。そりゃ、中には早稲田にも軍国青年みたいなすごいのがいて、しばらくは頑張っていましたが、半年もするとあきらめますよ。

 ただ私が一番つらかったのは、岸信介元首相らだとか、今までアメリカと敵対的にやってきた人が、平和になったら手のひらを返すようなことを言い出したことです。そういうのが3、4人いましたよね。
生徒会の闘士に

 そんなのを見ていたものだから、私は学生時代に生徒会の闘士になっちゃったんですよ。きっかけは、初めて早稲田のクラス委員になったことです。クラス委員は私一人だったから、国会の周りをデモ行進しました。

 デモって別に難しい話じゃない。当時はみんな、優秀なやつは「赤」になるんですよ。あとは駄目。僕は赤でも真っ赤じゃなくてね。今また話題になっている小林多喜二の『蟹工船』を読んだり、あの時代はみんなそうでした。建築をするにも、いろんなことを一通りはやっておいた方がいい。ヒューマニズムとは何かを考えるのは建築でも大切なのです。
(2008年11月15日号掲載)

=写真=早大専門部時代に仲間と(円内が私)
 
宮本忠長さん