牧野市政下の1919(大正8)年4月現在、長野市内には城山尋常高等小学校、後町尋常高等小学校、鍋屋田尋常高等小学校、加茂尋常小学校、同校茂菅分教場の4小学校と1分教場がありました。
当時の長野市の小学校教育は、人口増や義務教育年限の延長などが影響して児童数・学級数が増加。それに対応すべき施設・設備や教員配置の問題が浮上してきました。
そこで17年1月に設置された市政調査会第1部会は、今後の長野市小学校教育の在り方について議論を重ねました。その中心課題は"現行の多校制(一つの市の中に数校の学校を設置)を続行するか、松本市のように全市一校制に改めるか"に絞られました。
論議の結果は19年4月に報告書にまとめられ、市長に報告されました。その結論は「現在の数校制度ヲ改メテ一校制度トナシ尋常科五年程度ノ部校ヲ設ケ六年以上ヲ一校ニ集メ且六年以上ノ男女共学ヲ廃スル事」でした。一校制にして尋常科を部校にし、高等科を一つに集めようとする案が出されたのです。
牧野市長は、検討を重ねた20(大正9)年2月10日の最終案を基本にして、一校制実現のための申請書を同年3月2日、県に提出しました。
それによると、従来の4つの小学校を20年3月限りで廃止する。校舎はそのまま使用し、後町部・城山部・加茂部・鍋屋田部の4部とし、将来さらに1部増設を考える。
各部は尋常科児童のみを収容。中心部とする後町部は尋常科の一部と高等科児童の全部を収容。さらに小学校の延長である実業補習学校と実科高等学校を附設することにしました。
長野市の一校制は3月22日付で県から認可され、「長野市立長野尋常小学校」が設置されました。やがて同26日、県知事から修業年限2カ年の高等小学校の併置が認可されて、「長野市立長野尋常高等小学校」が4月1日にスタートしました。
市立長野尋常高等小学校は、後町部を中心とした城山、加茂、鍋屋田の4部校制(山王部は23年4月開校)で出発し、各部校の校名は「長野市立長野尋常高等小学校○○部」となりました。
大きな変化は、全市の各学校が一人の校長の下に、同じ教育方針を受けて同一歩調で運営されるようになったことです。
(元『長野市誌』近現代史部会長)
=写真=一校制の中心部校となった後町小の旧校舎
当時の長野市の小学校教育は、人口増や義務教育年限の延長などが影響して児童数・学級数が増加。それに対応すべき施設・設備や教員配置の問題が浮上してきました。
そこで17年1月に設置された市政調査会第1部会は、今後の長野市小学校教育の在り方について議論を重ねました。その中心課題は"現行の多校制(一つの市の中に数校の学校を設置)を続行するか、松本市のように全市一校制に改めるか"に絞られました。
論議の結果は19年4月に報告書にまとめられ、市長に報告されました。その結論は「現在の数校制度ヲ改メテ一校制度トナシ尋常科五年程度ノ部校ヲ設ケ六年以上ヲ一校ニ集メ且六年以上ノ男女共学ヲ廃スル事」でした。一校制にして尋常科を部校にし、高等科を一つに集めようとする案が出されたのです。
牧野市長は、検討を重ねた20(大正9)年2月10日の最終案を基本にして、一校制実現のための申請書を同年3月2日、県に提出しました。
それによると、従来の4つの小学校を20年3月限りで廃止する。校舎はそのまま使用し、後町部・城山部・加茂部・鍋屋田部の4部とし、将来さらに1部増設を考える。
各部は尋常科児童のみを収容。中心部とする後町部は尋常科の一部と高等科児童の全部を収容。さらに小学校の延長である実業補習学校と実科高等学校を附設することにしました。
長野市の一校制は3月22日付で県から認可され、「長野市立長野尋常小学校」が設置されました。やがて同26日、県知事から修業年限2カ年の高等小学校の併置が認可されて、「長野市立長野尋常高等小学校」が4月1日にスタートしました。
市立長野尋常高等小学校は、後町部を中心とした城山、加茂、鍋屋田の4部校制(山王部は23年4月開校)で出発し、各部校の校名は「長野市立長野尋常高等小学校○○部」となりました。
大きな変化は、全市の各学校が一人の校長の下に、同じ教育方針を受けて同一歩調で運営されるようになったことです。
(元『長野市誌』近現代史部会長)
=写真=一校制の中心部校となった後町小の旧校舎