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07 早大専門部〜常識不足思い知る 授業以外も吸収へ〜

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 早稲田に戻っても1年くらいはちゃんとした勉強はできませんでした。校舎はめちゃくちゃですし、教科書もそろわないし、混乱がひどくて先生も仕事にならないんです。

 それでも一生懸命授業をしようとする優秀な先生はいましたが、1時間くらいやると、どうしても雑談になってしまう。戦争の話だとか、いろいろと。建築科の教室は焼けてしまって、我々は文学部の棟で勉強しました。

 それでも早稲田はいい方だったんじゃないでしょうか。大隈講堂も図書館もきちんと残っていたので、そこを使うこともできました。

 自炊の下宿を転々
 東京には親せきが結構あって、母方のおじさんが、転々としながら自炊の下宿をしていました。長野県の学生のための寮はありましたが、すぐいっぱいになって入れないから、私はそのおじさんにくっついて、ぐるぐる引っ越ししながら通学していました。

 着る物も満足にありませんから、通学も軍服です。当時の軍服というのはいかめしくて、靴は革靴の編み上げですから、すごい格好ですよ。食べる物もなくて、ひもじい思いをしました。だから私もやせていたんじゃなかったかな。新宿の方に出るといろいろな闇市があって、面白いからのぞいて帰ったものです。

 少し落ち着いてきて思い知ったことは、自分は常識が欠けているということです。私は建築家の家に育って、建築が好きでこっちに来た。でも私にとって建築というのは、簡単に言うと、図面を描くのにはマニュアルみたいな決まった手順があって、それに従えばいいくらいの気持ちだったんです。

 建築には思想や歴史があり、さまざまな建築様式があるのだと知り、それをきちんと学ぶのが建築家なのかと、これは大変なところに来てしまったと思いました。自分なりに少し分かっているつもりだった建築でさえこうですから、それ以外はもっと駄目です。

 すごい連中が大勢
 食堂に行くとライスカレーとカレーライスの違いについて議論を始める連中がいたり、歌舞伎にすごく詳しいやつがいたり、みんな勉強以外にいろいろ知っている。やはり東京の一中だ、二中だという名門の出身者は違うなと思いました。

 私は誰も名前を知らないような須坂中学から一人です。テレビもない、本だって決まったようなものばかりで、本当に情報が何もなかったわけだから差は大きいです。こりゃ、いかんと思って本を読もうと思っても何を読んだらいいか分からないから、先輩に教えてもらって図書館に通いました。

 日比谷にあったCIA図書館に行くと、アメリカの建築の本があって、ますますすごい世界に入ってしまったと感じました。信州からは確か松本中学から一人来ていましたね。ただ、この人は親父さんが日銀の理事で、転勤だったとかで、さすがにそういう家の人ですから常識があり、私なんかとは違いました。

 試験の成績は不思議なことに、2番とか3番、あるいはもっと上だった。ああいうのは教わった通りに書いていればいいわけですから。東京の連中を見ていると、勉強はそんなにしない。それで私も授業以外のことも吸収しようと決めました。
(聞き書き・北原広子)
(2008年11月22日号掲載)

=写真=帰省した時、家族と一緒に自宅庭で撮影
 
宮本忠長さん