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08 水確保のため上水道敷設

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 長野市は裾花川、湯福川などの扇状地上に位置し、地下水が低く、古来、水利には大変不都合をきたしてきました。1868(明治元)年、箱清水村をはじめとする地域住民らは遠く戸隠村に水源を求めて農業用水などの確保を試みてきましたが成功せず、明治年間を通じて上水道の敷設は市政の重要な課題でありました。

 特に牧野元はそれを重要な公約に掲げて市長に就任し、その実現を図りました。

 長野市は1909(明治42)年1月、水道調査部を設置し、その水源を戸隠にするか、野尻湖にするかを検討しました。野尻湖からの引水については、上水内郡信濃尻村(現信濃町)や新潟県中頸城郡水利組合の水利権を盾にしての強い反対上申もあり、これを断念し、戸隠水源と決定しました。

 ようやく11年6月、戸隠に水源を求めての水道敷設の認可申請書が長野市長・牧野元から内務大臣・原敬に出されました。その中には、深刻な長野の水資源の実態が次のように述べられています。

 「長野市の飲用水等はそのほとんどを数千個の井戸水に頼ってきたが、水質がきわめて不良で人体に有害なものがあり、90%は飲料に適さない。しかも湧出水量が少なく、殊(こと)に晩秋から初夏にかけて全く枯渇してしまう。

 そこで高価な買水もできず、やむなく不良な自家の井戸水等に頼るのである。毎年毎年汚染病が発生するのは、そのためである。さらに防火用水も不足して、非常の場合に術もなく財産を灰にしてしまうことがしばしばで、このごろの県庁や師範学校の火事はその例である。水の確保は市民の生存上、不可欠なことである。今回水道敷設の事業を市会の議にかけて議決をみた」

 12年7月7日、内務省は長野市の上水道設置を認可しました。翌13年3月30日、往生地の浄水場予定敷地において内外の関係者200人が参加して上水道の起工式が行われました。

 総工費は85万余円。そのうち20万余円が国庫補助、15万余円が県費補助でした。この工事は3月から翌14年11月まで行われ、実際に給水がなされたのは15(大正4)年4月1日でした。

3代牧野元の項おわり
(2010年9月25日号掲載)

=写真=戸隠水源から水を引くための導水管運搬(芋井村)