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10 コンペ入選〜「雪国の住宅」応募人生の一大転機に〜

 佐藤先生から、あんまり怒られるもんだから舞台美術への道はあきらめるしかありませんでした。だいたい先生たちは友達同士だから、誰に相談したって反対するわけですよ。でも私は、建築をやりたい人が若い時に舞台美術を経験することは非常に有意義だから、勧めたいと思っています。

 当時はそんな意識があってやっていたわけではありませんが、振り返ってみると、役者、つまり人間たちが生き生きと動き回るための秩序を持った情景空間を、舞台という限られたスペースの中に創出するというのは「まちづくり」の考え方の原点だと思うわけです。

舞台美術あきらめ
 建築業界以外の方々にも私の名前が知られるようになったのは、長野に戻ってからの「小布施町並修景」のプロデュースがきっかけだと思います。ああいう大きな事業であっても、私がまず注目するのは、細い路地から見えてくる人々の生活であったり、向こう三軒両隣的な地域のお付き合いであったりという、人がいる情景、景観です。こういった発想は、人の動きを想定しながら作る舞台美術でいつの間にか養われたような気もするんです。

 舞台美術をあきらめたことは私の転機ともいえますが、もう一つ、結果的に大きな転機になったのが3年の時の公募展入選でした。 確か3年の秋でしたから、卒業を控えたころですね。上野の新制作協会がコンペを募っていました。当時はコンペなんて珍しいから、ちょっと挑戦してみるかと思ったんです。

 ちょうどそのころ、須坂にいる親父が手掛けていたのが積雪地帯の住宅だったので、私も「雪国の住宅」と名付けて構想を練ってみることにしました。

 これはいける、という直感があって、その構想をスケッチしました。雪国ですから1階は作業場にもできるような多目的スペースにして、2階が生活の場。春はこう、夏はこう、と雪国の四季をイメージして外観パース(予想図)を一晩に1枚ずつ仕上げました。

 2階は大きく分けて生活ゾーンと接客ゾーンがありますが、私はこれを対等にしたかった。今はそういう考え方も普及してきました。でも、当時だと表側に接客スペースがあって、家族の生活ゾーンは裏側というのが当然でしたから、これだけでも斬新だったと思いますが、両者はどっちが勝ってもいけないと私は考えていたんです。それどころか、東京なんかゆくゆくは生活が主体になるだろうと思った。

 在校生が入選したことは、早稲田大学にとっても初めてでしたから結構な騒ぎになりましたよ。この受賞がなければ、私はその後の人生に決定的な影響を与えてくれた恩師、佐藤武夫先生の事務所に就職することができなかったかもしれない。

今の事務所そっくり
 長野市の今の事務所は飯山の古い民家を移築したものですが、これが当時私が構想した「雪国の住宅」にそっくりだったんですよ。全くの偶然です。これには驚きまして、あれが私の出発点で、その原点に沿って歩むようにとの励ましを日々頂いているような気がしています。

 私は旧制の最後の世代で学部は3年で卒業。旧制のやつらは早く追い出してしまえってことかどうか、1951(昭和26)年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業することができました。
(聞き書き・北原広子)
(2008年12月13日号掲載) 

=写真=在学中に公募展で入選した「雪国の住宅」のパース
 
宮本忠長さん