
古代史の「日本紀」によると持統天皇5年(691)、朝廷が信濃に使者を遣わし水内神(みのちのかみ)を祭らせた。この水内神が当社らしい。また「延喜式」には「水内郡唯一の大社」との記述がある。この辺一帯、善光寺平の産土神(うぶすながみ)が水内大社という説もある。
健御名方富命は諏訪大社の祭神だ。彦神別神社の社名は「諏訪神の彦神(男神)の分社」の意味だ。「信濃を代表する豪族・諏訪氏に連なる金刺氏が創建したのだろう」という説。あるいは、当時最新の渡来文化である仏教・仏像を招へいして、この神社と並べて善光寺を建てたという説もあるが、善光寺の創建と同じくはっきりしない。

この場所は絶好の眺めを楽しめる。かつて領主・横山氏が築いた「横山城」の本郭(ほんかく)に当たる台地だ。後年、川中島合戦では上杉謙信も布陣している。
社殿の東には高く明治天皇の御幸記念碑が建つ。「(陛下は)川中島四郡を眺め、佳境なりとの言葉を発せられた」と、第5代市長・丸山弁三郎の言葉が添えられている。
境内には、事業記念碑や個人顕彰碑、俳句や短歌碑が林立。丁寧に読んでいくと、1、2時間はかかる。この神社は、長野市の歴史と人物史が大体分かるという、いわば野天の歴史博物館の様相だ。
「千曲川改修起工碑」は、たたみ4枚ほどもある。もっと驚くのは芸術院会員だった斎藤史(ふみ)(1909〜2002)の歌碑。大人の背丈を越え、巨大な水滴を思わせる黒石だ=写真下。

しき野をすぎて渉(わた)り
かゆかん水の深藍(ふかあい)
鄙(ひな)に身を潜めているが、掲げる理想の高さを見てほしい...。たくましい女史の生きざまがうかがえる。
(2010年9月4日号掲載)
=写真=城山の高台に建つ彦神別神社の本殿