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101 竹山稲荷 〜遊郭で発展した町の鎮守〜

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 街中の神社の創建は不明なものが多いが、西鶴賀町の鎮守である竹山随護稲荷神社は1922(大正11)年に松代町から勧請された。

 権堂町に連なる西鶴賀町は、かつて人家もまれな水田地帯だった。1877(明治10)年、長野県は遊郭の公的設置を長野、上田、松本に認めた。ただし市街地(従来の繁華街・権堂町)から5丁(550メートル)以上離すことを義務付けた。

 東鶴賀に広大な用地(1万平方メートル)を手当てして、長方形の「新地」を造成した遊郭業者だが「困ったぞ。権堂町まで5丁に足りない」「どうしよう。良い知恵はないか...」「真っすぐな道をジグザグの稲妻道路にしたらどうだ」ということで距離を稼ぐことにした=下図。
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 稲妻道路がどの道筋なのか、今では形跡も見当たらない。「竹山稲荷の付近」と言う古老もいる。西鶴賀町は小さな飲食店や日用品の商店、職人の街として発展し、1910(明治43)年に東鶴賀町から独立した。

 「独立した町になったからには、鎮守もほしい」「豊作と商売繁盛ならお稲荷さんだ」と奇特な地主が、松代藩の真田家4代・信弘が信仰していた竹山稲荷(現在は象山東麓)を勧請した。元は海津城内に祭られていたお稲荷さんという。

 西鶴賀町の竹山稲荷は、かつての境内が狭くなり、赤い鳥居がマンション壁面に妨げられるようになった。そのため苦肉の策だろう、90度転回して東向きにさらに一基を建ててある=写真。

 9月中旬(今年は19日(日))の祭礼には、善光寺木遣(や)りやみこし、神楽が練り歩く。境内の舞台には近くの長野中央病院の芸達者や権堂町のきれいどころも出演。そのにぎわいぶりは以前、テレビ局が特集放映し、近隣町のお祭り好きをびっくりさせたことがある。

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 昭和30年代には、神社隣のそろばん塾が繁盛し、夕闇が迫っても境内は授業を待つ子どもたちであふれていた。

 不思議な縁だが、近くには商都・長野のシンボルでもあった県内初の本格的百貨店「丸光」の経営者、松代出身の長沢家の邸宅があった。広大な邸宅跡は今、マンションと駐車場になっている。
(2010年9月18日号掲載)

 
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