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11 佐藤武夫先生〜誘われて研究室に建築一筋にまい進〜

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 早稲田大学を卒業する時に、佐藤武夫先生から「研究室に残らないか」と誘われました。大学院生みたいな形で、建築の修業をしないかということです。

 その時は、舞台美術の道が駄目になったし、長野に戻ろうかとも考えていたので、ちょっと参ったな、と思いました。先生は「学生時代に建築をちゃんと学んでないんだから、長野に戻るにしても1年くらいはきちんとこっちで勉強した方がいい」とおっしゃるのです。

   優秀な学生引っ張る
 それももっともなんですが、そもそも佐藤先生は優秀な学生を自分のところに引っ張るのが得意なんですよ。その時は確か3人引っ張られましたが、私はきっと3番目だったんじゃないかな。

 当時、アルミ住宅の量産化みたいなことが流行していて、私はこれに関する卒論を書いたんです。出来はたいしたことなかったから、佐藤先生から声が掛かったのは、やはり「雪国の住宅」のコンペ入選のおかげだと思います。

 佐藤先生という方は大隈講堂の設計者として有名でしたが、建築音響の先駆者で第一人者です。早稲田でも建築音響学を担当されていて、これがすごいんです。例えばステージの模型があって、右の方から煙を出す。バックは鏡になっていて、煙の勢いで光がどういう形になるか実験するとか。面白いというか独創的というか、これもひとつの理論だなあと感心しました。

 それから、障子は紙が張ってないとグラグラしますが、紙を張ると動かない。内藤多仲(たちゅう)先生(東京タワーの設計者)は耐震構造の理論から、紙というのは耐震壁であると。それで学位を取ったんだ、という話をしていました。

 佐藤先生自身は、早稲田を卒業と同時に母校の助教授に抜てきされたくらいの天才的な方で、私が学んでいた当時は教授だったんですが、私たちを引っ張って間もなく「作家でやっていく」と、早稲田を辞めてしまいました。それまでも卒業生を引き抜いてスタッフにして、勤務の傍ら建築設計事務所をやっていたんですが、いよいよ独立する道を選ばれたわけです。

 「15年頑張ろう」と
 その時、私に対して先生は「15年頑張ろう。15年の意味は後で分かるよ」などと、いくつか条件を出してきました。優秀な人をスタッフにしてもじきに辞めちゃうので、先生としてもきっと困っていたんじゃないでしょうか。

 まだ20歳そこそこの若者にとって、15年と言われてもピンときません。何より、厳しい佐藤先生の下では、私なんかじきにクビになるかもしれない。その場で「はい、頑張ります」とはっきり応じる自信はなかったんですが、建築修業の場としてこれ以上は望めません。佐藤先生の建築に対する姿勢は尊敬していましたし、ここでとことん修業させてもらおうと、先生に付いて行くことに決めました。

 それからは建築一筋にまい進です。世相的にも戦後の復興期ですからね。公共建築物がどんどん建つ時期で、仕事は猛烈に忙しかったです。さらにその合間には、学生時代の勉強不足を取り戻すためにも、先生の事務所にある文献を片っ端から読んだりで、下宿に帰っている時間もあんまりないような日々が始まりました。
(聞き書き・北原広子)
(2008年12月20日号掲載)

=写真=大隈講堂の設計者でもある佐藤教授
 
宮本忠長さん