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13 うらやむべき最後の時間

 喜びや悲しみは、その人の置かれた時代背景や、生い立ちによって随分違う。その人にとっては拝みたくなるほどの喜びであっても、この人にとっては「そんなことって、本当にあったの」であったりする。

 一粒の米の持つ重さ
 富山県常願寺川の上流域、山深きところにあった有峰(ありみね)集落の出身者から聞いた話-。有峰は折立(おりたて)峠を経て、霊峰・薬師岳に向かう道筋にあった、貧しい山の民の小さな集落。「あった」というのは、有峰ダムの建設によって水没してしまったからである。

 ばあちゃんの容態が悪く、いよいよ末期かというとき、息子は仕入れてきたわずかな米を竹筒に入れ、ばあちゃんの耳元でガサガサと揺すった。「ばあちゃん、米だよ。これでお粥(かゆ)を炊(た)いてやるから」。ばあちゃんは「ありがたい、ありがたい」と手を合わせ、肩を震わせて哭(な)いた。働き詰めに働いて、いま死にゆくばあちゃんの涙は、喜びの極まったものだったと思う。

 無着成恭氏の「山びこ学校」の生徒だった佐藤藤三郎氏(農民・詩人)の「自分と出会う」(1998・2・10朝日新聞)から-。

  昭和三十七年六月一日、祖母は八十一歳でこの世を去った。その日の数日前、寝床のそばに私を呼んで「コメの飯をたらふく食えるようになったのを見られて嬉(うれ)しい」と苦しい身ながらも静かに頭をも
 たげて笑顔を見せた。...私は「コメはたくさんとってあるからいっぱい食えよ」と返事をすると、にこりと笑い「幸せになった...」と細い声を吐(は)き、私と視線を交わし瞼(まぶた)を閉じた。

  この村(山形県上 山市狸森(むじなもり))は山と谷 が重なり合って平坦地がなく、水田が少ないために自家飯米が自給できる家は2割か3割程度にすぎなく、おおかたの家は食べるコメに事欠いていた。

 夕牡丹ほどの時間
 豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国は貧しかった。日本民族は一粒の米を得たいばかりに、営々として働き続けてきた民族であった。尺地(せきち)をも見逃さず、耕して天に到(いた)る光景は全国至るところで見られたのだった。

 戦争の悲惨を語れる人が年々少なくなっていくように、そして風化されていくように、「落ち穂拾い」の体験者もまた同様である。まだ、日本が貧しかったころのお話-。

  小学生たちも稲刈りが終わったあとの田んぼを丹念に見回りながら、落ち穂拾いをしました。手拭いを半分に折って袋を作り、拾い集めた落ち穂を、学校の庭に筵(むしろ)を敷いて干しました...

 こんな情景は、もはや語り草となってしまった。米を食べること自体が容易ではなく、盆暮れに食べられるのがやっと。1955(昭和30)年ころまでは、そんな時代だった。一粒の米の持つ重さ。有峰での話は"米の音を聞いただけで病気は治る"というものだった。

 その米にまつわって、いかほど多くの人が苦しみ、喜び、悲しみ、そして祈りを捧げてきたことだったか。秋祭り。鎮守の杜(もり)への祈りは、五穀豊穣・豊年満作と家内安全こそが、そのすべてだったと言ってもよかった。衣食住のすべてにわたって約(つま)しい生活がそこにあった。

 夕牡丹ほどの夕日を
 賜(たまわ)りし    柏翠

 88歳で亡くなった伊藤柏翠の、逝去3日前に作られた辞世の句だという。慎み羨(うらや)むべき最後の時間とメッセージがそこにある。
(2010年9月4日号掲載)
 
美しい晩年