結婚生活は、妻とその両親、妹と弟の暮らす家族の中に私が入るという形で始まりました。これは恵まれていましたね。妻を心配することなく、安心して佐藤事務所に泊まり込みで仕事に集中できますし、岳父が出版関係の仕事でかつては本も書くような人だったから、家には本がたくさんあって交際範囲も広いのです。
雑誌なんか月に10冊くらい届きます。「新建築」「文化」「芸術新潮」など毎月、片っ端から読みました。お正月などはいろいろな業種の人が集まります。私は建築家の家に生まれて建築を学んで、建築設計事務所に入ってしまったわけで、建築以外の分野を知りません。その点、出版というのは範囲が広いので、話の内容も多彩で勉強になりました。
この岳父の家で暮らして刺激を受けたり、建築以外の世界を知る機会がなかったら、私はもっと平凡な人生を歩んでいたかもしれない。今でも非常に感謝しています。
妻の家で10年世話になっている間に娘が2人生まれたこともあって、独立することになりました。大泉学園に自分で設計した小さな家を建てました。これがだんだん手狭になったというか使いにくくて、何年か後に壊して建て直したんですが、自分の家というのは、いまだにまだ満足とは言えないですね。
建築について佐藤先生がよくおっしゃっていたのは「流行に飛びつくのではなくて、オーソドックスなのをきちんとやりなさい」ということです。私はどうしても流行のをやりたくなる。すると叱られるわけです。
私が好きだったのはル・コルビジェの、こう、スカッとしたデザインですが、先生はシカゴの落水荘とか、日本だったら帝国ホテルのような重厚というか、フランク・ロイド・ライトのスタイルがお好きでした。
やっているうちに先生の「ダメ」が何なのか伝わってきますから、結局それが私の建築の基礎になっています。佐藤先生の影響が大きいものだから、スカッとしたのはできるのに、クラシックなのが板についているようなところがありますね。
「15年一緒にやろう」と言われた意味もおのずと分かってきました。5年間は先生の言うとおりにやる。次の5年間は自分がチーフになるが、所長の考えを形にする。そして最後の5年間は部下を使って複数の仕事をする、というのが先生による15年間の説明でした。佐藤事務所の仕事は文化会館や市庁舎などが多いので、一つの仕事に2年くらいはかかって、5年の単位などはあっという間なのです。
長野との縁感じ
初期のころに手掛けたのは、文京公会堂と文京区役所です。東京に家を建てたのは、このまま東京にいようという考えも少しはあったからなのですが、やはり長野とのご縁は最初のころから感じていました。
文京公会堂を終えた時に長野の市会議員さんが視察に来て、私が案内をしました。その時に私はちょうど長野市民会館も担当していて、須坂の実家に泊まったり、それこそ信越線でしょっちゅう行き来していたものですから、じゃあ長野に戻ったらどうするか、なんて話も出ましてね。そのころは長野だけでなく方々の仕事が押し掛け、やはり東京か、それとも長野市かなどと故郷への気持ちというのが刺激されました。
雑誌なんか月に10冊くらい届きます。「新建築」「文化」「芸術新潮」など毎月、片っ端から読みました。お正月などはいろいろな業種の人が集まります。私は建築家の家に生まれて建築を学んで、建築設計事務所に入ってしまったわけで、建築以外の分野を知りません。その点、出版というのは範囲が広いので、話の内容も多彩で勉強になりました。
この岳父の家で暮らして刺激を受けたり、建築以外の世界を知る機会がなかったら、私はもっと平凡な人生を歩んでいたかもしれない。今でも非常に感謝しています。
妻の家で10年世話になっている間に娘が2人生まれたこともあって、独立することになりました。大泉学園に自分で設計した小さな家を建てました。これがだんだん手狭になったというか使いにくくて、何年か後に壊して建て直したんですが、自分の家というのは、いまだにまだ満足とは言えないですね。
建築について佐藤先生がよくおっしゃっていたのは「流行に飛びつくのではなくて、オーソドックスなのをきちんとやりなさい」ということです。私はどうしても流行のをやりたくなる。すると叱られるわけです。
私が好きだったのはル・コルビジェの、こう、スカッとしたデザインですが、先生はシカゴの落水荘とか、日本だったら帝国ホテルのような重厚というか、フランク・ロイド・ライトのスタイルがお好きでした。
やっているうちに先生の「ダメ」が何なのか伝わってきますから、結局それが私の建築の基礎になっています。佐藤先生の影響が大きいものだから、スカッとしたのはできるのに、クラシックなのが板についているようなところがありますね。
「15年一緒にやろう」と言われた意味もおのずと分かってきました。5年間は先生の言うとおりにやる。次の5年間は自分がチーフになるが、所長の考えを形にする。そして最後の5年間は部下を使って複数の仕事をする、というのが先生による15年間の説明でした。佐藤事務所の仕事は文化会館や市庁舎などが多いので、一つの仕事に2年くらいはかかって、5年の単位などはあっという間なのです。
長野との縁感じ
初期のころに手掛けたのは、文京公会堂と文京区役所です。東京に家を建てたのは、このまま東京にいようという考えも少しはあったからなのですが、やはり長野とのご縁は最初のころから感じていました。
文京公会堂を終えた時に長野の市会議員さんが視察に来て、私が案内をしました。その時に私はちょうど長野市民会館も担当していて、須坂の実家に泊まったり、それこそ信越線でしょっちゅう行き来していたものですから、じゃあ長野に戻ったらどうするか、なんて話も出ましてね。そのころは長野だけでなく方々の仕事が押し掛け、やはり東京か、それとも長野市かなどと故郷への気持ちというのが刺激されました。
(聞き書き・北原広子)
(2009年1月10日号掲載)
=写真=長野へ戻ろうか考え始めたころの私
(2009年1月10日号掲載)
=写真=長野へ戻ろうか考え始めたころの私