記事カテゴリ:

14 挫折経験こそが大きな力

 映画監督の新藤兼人さんの談話に、こんな言葉があるのを見つけた。50〜60歳代のころは「老人」を外側から見ていた。頭が白くなるとか肉体が衰えるとかを、一種の風景的に見ていた。それが、80歳代になって老人を内側から見るようになった、というのである。
 私もそういう世代に入って、なるほどと深く実感する。年寄りに「若いときは分からねえが、年を取ってみりゃ分かるさ」とよく言われたものだが、それが身につまされるほどに、よく分かるようになった。

 長野駅のトイレでじいちゃんと孫
 卑近な話で恐縮であるが、駅の便所で見掛けた風景。老人と子どもが並んで用を足している。子どもは後から来たのだが、小走りにやって来たかと思うと、サッとオチンチンを出して、まさに"間髪を容(い)れず"に放尿、その勢いのよいこと。それも素早く終わってさっと退場。

 隣のじいさんはと見れば、放尿するまでにもぞもぞしていて時間がかかる。タラタラと五月雨(さみだれ)方式で途切れがちだ。子どもの後はもう2人の人が用を足して立ち去った。老人は後ろに待っている人がいることを知ると、いよいよ落ち着かず汗が噴き出している。背中に恥ずかしさと、待たせて相済まぬという思いが滲(にじ)み出ている。

 私は「じいちゃん、焦らないで、ゆっくり、ゆっくり」と思いつつも、声に出せないでいる。先ほどの男の子がやってきて(実は孫だったらしい)「じいちゃん、まだぁ」と声を掛けている。じいちゃんは「うん、終わった」と言いながら振り向く。チャックが開いたままで、ズボンの前が汚れている。周りに同情の目と、何をやっていることだか、という両方の目があることが分かる。

 新藤さんの言うように、そこには、一つの風景としてそれを眺めている人と、自分ごとのように見ている人とがいる。孫がじいちゃんの尻に手を当てて、「じいちゃん、まだぁ」には、催促というより、心配して見に来たという優しさがあって、救われたのだった。"誰もが行く道、来た道"とはよく言ったものだ。小林一茶の

 死支度(しにじたく)致せ致せと桜哉

の句が頭をかすめたりもするのである。

 幾多の挫折を乗り越えて
 新藤さんはこうも語っている。「仕事をするにはよりどころが必要だ。若い人なら未知の世界に足を踏み入れる好奇心がそれだ。老人の場合は"挫折の経験"だ。老いを迎えてなお仕事に熱意を燃やす人は、幾多の挫折を乗り越えてきている。この経験こそが十分に"若さ"に対抗できる力だ」というのだ。

 挫折と言われれば誰しも、痛いほど身に覚えのあることだ。それが力だと言われれば、これほど鼓舞され励まされる言葉もない。

 定年なり退職なりして自由な身になってみると、このいわば第二の人生がいかに大切なものかが、身をもって分かる。それは在職中の想像をはるかに超えて、貴重な時間であることを知る。60歳で退職したとしても、80歳までは、まだ20年もあるのだと知ったとき、また、それをしっかり自分に言い聞かせたときの充足感と喜びといったらないのだ。カンバスに向かって思い切り夢が描けるのだ。それこそ美しい晩年、豊かな老後のスタート台に立てるのだ。

 「終わり良ければすべて良し」と言うではないか。定年後こそが本当の人生だ。自分の判断ですべてを律することができ、新たな世界を切り拓(ひら)くことさえ可能なのだ。人生の店仕舞(じま)いという大仕事も残っている。
(2010年9月25日号掲載)

 
美しい晩年