私が佐藤事務所にいたのは昭和26(1951)年から39年ですから、まだ地方の建築家が育っている時代ではありません。大きな建築物はどうしても東京に発注されることが多く、佐藤事務所でも特に市庁舎や公民館などの公共建築物を中心に仕事をしていました。
先生に建築学会賞
都内以外にも岩国、新潟、土浦の市庁舎など、私もまさに全国を飛び回っていました。中でも印象的だったのは旭川の市庁舎です。これで佐藤先生が建築学会賞を受賞されたのです。この賞は簡単に受賞できるものではありません。佐藤先生もさすがにうれしそうでした。
事務所の皆が拍手で祝っているときに先生が「建築家としてやっとこの賞をもらった。今ここにいる人の中から将来、受賞者が出ることを期待している」とおっしゃいました。
そのときは、佐藤先生でさえやっと受賞できたようなすごい賞を、自分がもらえるなんて思ってもいませんでした。長野に戻ってから20年近くたった昭和56(81)年、長野市立博物館の設計で同じ賞を頂くことができたとき、佐藤先生はもうお亡くなりになっていましたが、奥さまがちゃんと覚えていてくださっていて、東京会館で祝いの席を設けてくださいました。
佐藤事務所は先生亡き後も続いていますから、所員が集まってくれましてね。その30人ほどを前に奥さまが「やっと一人受賞することができて本当にうれしい」と言ってくれました。これには感激しました。こういう優しさと厳しさで切磋琢磨(せっさたくま)し合えた佐藤事務所の時代があったから、今日があるのだとつくづく思ったものです。
この佐藤事務所で、もうじき先生がおっしゃっていた15年がたつというころになると、私はチーフのようになっていて、大きな仕事も中心になって進めていました。事務所の規模も膨らんで、私が入社したころは数人だったのが30人くらいいました。
ただ、30人以上になると管理が行き届かなくなって、いい仕事ができないというのが先生の主義でした。これは私が自分で建築設計事務所を率いるようになっても教訓としていることです。
土浦市庁舎の仕事が終わった時、故郷に帰ろうという気持ちが固まりました。仕事の規模が大きいので、次の物件を始めると2年や3年はすぐにたってしまいます。だから、一区切りしたところでないと責任上、良くないわけです。
自分の考えも確立
佐藤先生から指導を受けていた時期はただ夢中で学んでいたわけですが、もうこのころになると建築に対する自分自身の考えも確立してきますから、先生への批判眼のようなものも生まれてきます。
先生は「風土と建築」がテーマでした。風土というのは固有であり、それに合わせた建築をすべきである、ということです。この考えを私はずっと尊敬し、自分の基盤にもしていますが、果たして東京にいながら実践できるのか。先生は矛盾していないか、という疑問がわいてきたのです。
風土の中にある建築はだんだん風化し、それも風土の一部となるわけですから、その過程も見届けないといけないのではないか。それには自分も生活する場で、一貫して責任を持つ仕事をすべきではないかと確信するようになったわけです。
先生に建築学会賞
都内以外にも岩国、新潟、土浦の市庁舎など、私もまさに全国を飛び回っていました。中でも印象的だったのは旭川の市庁舎です。これで佐藤先生が建築学会賞を受賞されたのです。この賞は簡単に受賞できるものではありません。佐藤先生もさすがにうれしそうでした。
事務所の皆が拍手で祝っているときに先生が「建築家としてやっとこの賞をもらった。今ここにいる人の中から将来、受賞者が出ることを期待している」とおっしゃいました。
そのときは、佐藤先生でさえやっと受賞できたようなすごい賞を、自分がもらえるなんて思ってもいませんでした。長野に戻ってから20年近くたった昭和56(81)年、長野市立博物館の設計で同じ賞を頂くことができたとき、佐藤先生はもうお亡くなりになっていましたが、奥さまがちゃんと覚えていてくださっていて、東京会館で祝いの席を設けてくださいました。
佐藤事務所は先生亡き後も続いていますから、所員が集まってくれましてね。その30人ほどを前に奥さまが「やっと一人受賞することができて本当にうれしい」と言ってくれました。これには感激しました。こういう優しさと厳しさで切磋琢磨(せっさたくま)し合えた佐藤事務所の時代があったから、今日があるのだとつくづく思ったものです。
この佐藤事務所で、もうじき先生がおっしゃっていた15年がたつというころになると、私はチーフのようになっていて、大きな仕事も中心になって進めていました。事務所の規模も膨らんで、私が入社したころは数人だったのが30人くらいいました。
ただ、30人以上になると管理が行き届かなくなって、いい仕事ができないというのが先生の主義でした。これは私が自分で建築設計事務所を率いるようになっても教訓としていることです。
土浦市庁舎の仕事が終わった時、故郷に帰ろうという気持ちが固まりました。仕事の規模が大きいので、次の物件を始めると2年や3年はすぐにたってしまいます。だから、一区切りしたところでないと責任上、良くないわけです。
自分の考えも確立
佐藤先生から指導を受けていた時期はただ夢中で学んでいたわけですが、もうこのころになると建築に対する自分自身の考えも確立してきますから、先生への批判眼のようなものも生まれてきます。
先生は「風土と建築」がテーマでした。風土というのは固有であり、それに合わせた建築をすべきである、ということです。この考えを私はずっと尊敬し、自分の基盤にもしていますが、果たして東京にいながら実践できるのか。先生は矛盾していないか、という疑問がわいてきたのです。
風土の中にある建築はだんだん風化し、それも風土の一部となるわけですから、その過程も見届けないといけないのではないか。それには自分も生活する場で、一貫して責任を持つ仕事をすべきではないかと確信するようになったわけです。
(聞き書き・北原広子)
(2009年1月17日号掲載)
=写真=佐藤事務所で最後の仕事となった土浦市庁舎のスケッチ
(2009年1月17日号掲載)
=写真=佐藤事務所で最後の仕事となった土浦市庁舎のスケッチ