私が長野に戻ることにした時の佐藤先生の心中は複雑だったと思いますよ。言葉にはされませんでしたが、きっと「宮本は最初から、いずれ帰ると言っていた。岡山の市民会館を手掛ける時も『これで辞める』と決意を伝えられたから分かっている。しかし...」という心境だったのではないでしょうか。
後継者に望まれ
「しかし...」の部分の心当たりはあるのです。佐藤先生としては、私が後継者になることを望んでいたのだと思います。もちろんほかの所員には知らせておりませんでしたが、先生の態度から察することはできました。実際、所内でも私はリーダー的な存在になっておりましたしね。
結局「そこまで言うのだったら」ということで、円満退職が決まりました。その時に、私の長野の事務所の顧問を佐藤先生にお願いし、私が嘱託で佐藤事務所にも籍を置く形にしたらどうかと提案したのです。「それはいい考えだ」ということで、たすき掛けみたいな関係で協力し合うことになりました。私にとっても心強いですからね。
戻った直後は親父の事務所に入ったんですよ。これはうまくいかなかった。親父に昔の勢いはなくなっていて、決まり切った仕事を従来通りにやるというだけなのです。逓信省時代にはそれなりきの実力があった父親が。最新の情報が入らず、ニーズも限られた故郷に戻って長年仕事をするうちに、視野が狭くなってしまったんだと感じました。
しかも私にも自分のやり方を求めるわけですよ。それじゃあ先細りは明らかです。協力はし合うが独立の道を歩むことにしました。親父の姿を見て、地方在住だからといって自己研鑽を怠らず、周囲に迎合し過ぎず、きちんとした仕事をするのだ、とあらためて決意しました。
風土に根差した地方の建築家が必要だということは、佐藤事務所時代にとことん学ばせてもらっていましたから、ここで自分の立場というか使命が再確認できた感じでしたね。
初仕事に市庁舎
ちょうどそんな時に、長野市庁舎の設計の話が舞い込みました。この仕事は変な話ですが、佐藤事務所でお蔵入りみたいになっていたんですが、いよいよ着手することになりましてね。市民会館も私が担当したから、ちょうどいいわけです。佐藤武夫監修ということにして、実際には私が担当することになりました。「宮本忠長建築設計事務所」設立が1964(昭和39)年で、この初仕事は翌65年のことです。
市庁舎はこれまでも経験していましたが、自分の居住地となると一層気合いが入ります。市民会館と市庁舎は総合計画なので、バランスを取りながらプランを練りました。両者の間は広場にして、車社会を見据えた駐車場は地下に確保したかった。今も、この広場の部分が心持ち盛り上がっているのは、地下に駐車場を造る予定だった名残なんです。
市庁舎は、ほかの公共施設とまとめて、一種の公園のような、市民の憩いの場として総合的にプランニングするのがいいと思いますね。長野の前に私が手掛けた新潟の市庁舎はそうでした。だから、当時は新潟の方が進んでいるな、と思ったものです。もっとも今は新潟も変わってしまっていますがね。
後継者に望まれ
「しかし...」の部分の心当たりはあるのです。佐藤先生としては、私が後継者になることを望んでいたのだと思います。もちろんほかの所員には知らせておりませんでしたが、先生の態度から察することはできました。実際、所内でも私はリーダー的な存在になっておりましたしね。
結局「そこまで言うのだったら」ということで、円満退職が決まりました。その時に、私の長野の事務所の顧問を佐藤先生にお願いし、私が嘱託で佐藤事務所にも籍を置く形にしたらどうかと提案したのです。「それはいい考えだ」ということで、たすき掛けみたいな関係で協力し合うことになりました。私にとっても心強いですからね。
戻った直後は親父の事務所に入ったんですよ。これはうまくいかなかった。親父に昔の勢いはなくなっていて、決まり切った仕事を従来通りにやるというだけなのです。逓信省時代にはそれなりきの実力があった父親が。最新の情報が入らず、ニーズも限られた故郷に戻って長年仕事をするうちに、視野が狭くなってしまったんだと感じました。
しかも私にも自分のやり方を求めるわけですよ。それじゃあ先細りは明らかです。協力はし合うが独立の道を歩むことにしました。親父の姿を見て、地方在住だからといって自己研鑽を怠らず、周囲に迎合し過ぎず、きちんとした仕事をするのだ、とあらためて決意しました。
風土に根差した地方の建築家が必要だということは、佐藤事務所時代にとことん学ばせてもらっていましたから、ここで自分の立場というか使命が再確認できた感じでしたね。
初仕事に市庁舎
ちょうどそんな時に、長野市庁舎の設計の話が舞い込みました。この仕事は変な話ですが、佐藤事務所でお蔵入りみたいになっていたんですが、いよいよ着手することになりましてね。市民会館も私が担当したから、ちょうどいいわけです。佐藤武夫監修ということにして、実際には私が担当することになりました。「宮本忠長建築設計事務所」設立が1964(昭和39)年で、この初仕事は翌65年のことです。
市庁舎はこれまでも経験していましたが、自分の居住地となると一層気合いが入ります。市民会館と市庁舎は総合計画なので、バランスを取りながらプランを練りました。両者の間は広場にして、車社会を見据えた駐車場は地下に確保したかった。今も、この広場の部分が心持ち盛り上がっているのは、地下に駐車場を造る予定だった名残なんです。
市庁舎は、ほかの公共施設とまとめて、一種の公園のような、市民の憩いの場として総合的にプランニングするのがいいと思いますね。長野の前に私が手掛けた新潟の市庁舎はそうでした。だから、当時は新潟の方が進んでいるな、と思ったものです。もっとも今は新潟も変わってしまっていますがね。
(聞き書き・北原広子)
(2009年1月24日号掲載)
=写真=宮本忠長建築設計事務所でのミーティング
(2009年1月24日号掲載)
=写真=宮本忠長建築設計事務所でのミーティング