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17 博士号取得 〜現地調査しては発表 高校教師で学位論文

17-ichikawa-0904p.jpg 須坂西高校には16年間勤務しました。こんなに長期にわたり、一つの高校にとどまるということは普通ありません。私があまりに地理学にのめりこんでいた故の特例だと思います。当時は土曜日も授業がありましたので、フィールドワークに出るのは午後から。盆も正月もなく、あちこちに出掛けました。

 担任を持ち、学校内での責務も果たしましたが、例えば入学試験の採点はするけれども判定会議には出ないなど、校長に大目に見てもらうことはありました。

手を出し過ぎて叱責
 現地調査しては毎年、日本地理学会で発表。学会誌に論文が掲載されるという連続の中で、1956(昭和31)年に「善光寺平におけるリンゴ地帯の形成と営農形態」という論文を信濃史学会に寄稿しました。すると恩師の田中啓爾先生から「君はいろいろ手を出し過ぎだ。高冷地に絞りなさい」とおしかりを受けてしまいました。

 私は反省し、調査対象を高冷地農業に絞ることにしました。一番頻繁に通ったのは菅平です。川上村、開田高原、富士山麓などの高原地帯をコツコツと歩きました。

 静岡県富士宮市に、満蒙開拓から戻った下伊那の下條村や泰阜村出身の人々が酪農を営む地区があります。ここに調査に行くと、相手は乳搾りの最中。手伝っているうちに夜になり、帰りのバスがなくなってしまう。こういうときは農家に泊めてもらって詳細を聞き取るチャンスです。このように、実費を払って泊めてもらったことは数知れません。

 当時の畜産は牛舎があるのが普通なのに、この村にはありません。理由を聞くと「牛皮のジャンパーを着ているんだから大丈夫」と。実際、搾乳が終わると牛は外で勝手に寝ていました。こういう実態はどこにも書いてないので新しい発見です。

 高冷地農業の研究成果が認められて私は、高校教師としては珍しい博士号を取得することになります。学位論文提出の直接のきっかけとなったのは、54(昭和29)年に京都大学で開催された日本地理学会の土地割りに関するシンポジウムでした。

 パネリストの一人として私は、信濃川と木曽川で行われている地割慣行地について発表しました。洪水で全部の土地が流されないようにいくつかに分け、瀬替えという水路の変更を行う、江戸時代から行われていた治水と利水の技術です。

「君は落ちて元々」
 発表に対する反響は大変なもので、質問が50分も続きました。田中先生からも「学位論文の提出を遠慮することはない」と褒められ、自信をつけました。先生は「君は落ちて元々だから」ともおっしゃいました。高校教師で学位論文が通るなどということは、めったにないという意味です。

 論文のほかに語学試験もありました。英語、ドイツ語、フランス語から2カ国語を選択します。一緒に受けたのは大学勤務の若い2人で、さっさと書いて出て行きましたが、私は時間いっぱい取り組みました。試験官から「君は大学にいるわけじゃないから語学は弱いと思ったが強い」と驚かれました。

 10年がかりの調査の成果をまとめた学位論文は今、神田の古本屋で4万円します。私はこれを信大の非常勤講師の時の教科書にしていましたので、夫婦で持っているという人もいるはずです。
(聞き書き・北原広子)
(2010年9月4日号掲載)

=写真=須坂西高勤務時代
 
市川健夫さん