建築家には大きく分けて二つのタイプがあるといわれます。私は「空中戦」と「地上戦」なんて言い方をしていますが、「天空派」と「大地派」などと呼ぶ人もいますね。
空中戦というのはどういうのかというと、世界の動き、日本の動きをキャッチしながら、空から俯瞰するように自分の建築をまとめていく手法です。土地や風土などの固有性にとらわれるのではなくて、普遍的な建築を志向するタイプですね。
地上戦の発想から
一方で地上戦というのは、大地を歩くというか、要するに日常の中で、建築を考える手法です。天空を行く人たちは、それはそれで立派な考えを持っていると思いますが、私は大地を行く方で、天空はあまり見ないんです。
「小布施町並修景」も、地上戦の発想から生まれたものです。信毎賞、毎日芸術賞、吉田五十八賞などを受賞したこともあって、小布施のまちづくりの方法は、業界では「小布施方式」とか「宮本方式」と呼ばれるくらい有名になりましたが、この計画に着手した30年前は、都市再開発ばかりだったので、私たちのやり方に対して批判もありました。
それでも進めることができたのは、きちんとしたコンセプトに基づいてプロジェクトを遂行するために必要な要素がそろっていたからだと思います。
まず私には、まちづくりは歴史や人々の生活、近隣や外部の人々との距離感や関係性を大切にすべきだという考えがありました。佐藤事務所時代からまちづくりについて刺激を受ける機会があったのも幸いでしたね。
佐藤先生が日本を代表する建築家の一人としてヨーロッパ視察に行った時の報告で、イタリアのシエナの「カンポの広場」のスライドを見せてくださいました。広場を覆う屋根があったら、まるで部屋の中にいるようなくつろいだ感じになること、内は自分たちの空間、外は皆のものという造りである、との説明でした。後に私も見学して、地形を活(い)かしたまちの形態、歴史と暮らしの息づきに感動を覚えました。
終了のない事業
小布施のまちづくりの考えも、簡単に言ってしまうと、昔からの生活環境を整備するというものです。ですから、実はこのプロジェクトに終了はないのです。ゆっくりと今も続いています。
このような建築家の考えを実現するための態勢も、小布施の場合は理想に近かったですね。最初にまちの核を決めようということで北斎館の位置で迷ったわけですが、当時の市村郁夫町長と私で今の場所に決めました。重要な決定がコアのメンバーの合意でなされるのは一貫性のある仕事を進める上で大変ありがたいことです。
そのころ周囲は畑ばかりだったのが、北斎館ができてからにぎわいの中心みたいになっていますよね。
学校など公共施設の設計も、まちづくりの一環ということで私が担当しました。これには癒着だという批判もありましたよ。その時に町長が「建築家というのは町長の女房だ」と言ったわけです。そのくらいの関係じゃないと、生活感のあるまちづくりは実現しないと、だからお互い真剣なんだと、そういうことです。普通はここまで言えませんよね。これじゃあ、浮気もできません。
空中戦というのはどういうのかというと、世界の動き、日本の動きをキャッチしながら、空から俯瞰するように自分の建築をまとめていく手法です。土地や風土などの固有性にとらわれるのではなくて、普遍的な建築を志向するタイプですね。
地上戦の発想から
一方で地上戦というのは、大地を歩くというか、要するに日常の中で、建築を考える手法です。天空を行く人たちは、それはそれで立派な考えを持っていると思いますが、私は大地を行く方で、天空はあまり見ないんです。
「小布施町並修景」も、地上戦の発想から生まれたものです。信毎賞、毎日芸術賞、吉田五十八賞などを受賞したこともあって、小布施のまちづくりの方法は、業界では「小布施方式」とか「宮本方式」と呼ばれるくらい有名になりましたが、この計画に着手した30年前は、都市再開発ばかりだったので、私たちのやり方に対して批判もありました。
それでも進めることができたのは、きちんとしたコンセプトに基づいてプロジェクトを遂行するために必要な要素がそろっていたからだと思います。
まず私には、まちづくりは歴史や人々の生活、近隣や外部の人々との距離感や関係性を大切にすべきだという考えがありました。佐藤事務所時代からまちづくりについて刺激を受ける機会があったのも幸いでしたね。
佐藤先生が日本を代表する建築家の一人としてヨーロッパ視察に行った時の報告で、イタリアのシエナの「カンポの広場」のスライドを見せてくださいました。広場を覆う屋根があったら、まるで部屋の中にいるようなくつろいだ感じになること、内は自分たちの空間、外は皆のものという造りである、との説明でした。後に私も見学して、地形を活(い)かしたまちの形態、歴史と暮らしの息づきに感動を覚えました。
終了のない事業
小布施のまちづくりの考えも、簡単に言ってしまうと、昔からの生活環境を整備するというものです。ですから、実はこのプロジェクトに終了はないのです。ゆっくりと今も続いています。
このような建築家の考えを実現するための態勢も、小布施の場合は理想に近かったですね。最初にまちの核を決めようということで北斎館の位置で迷ったわけですが、当時の市村郁夫町長と私で今の場所に決めました。重要な決定がコアのメンバーの合意でなされるのは一貫性のある仕事を進める上で大変ありがたいことです。
そのころ周囲は畑ばかりだったのが、北斎館ができてからにぎわいの中心みたいになっていますよね。
学校など公共施設の設計も、まちづくりの一環ということで私が担当しました。これには癒着だという批判もありましたよ。その時に町長が「建築家というのは町長の女房だ」と言ったわけです。そのくらいの関係じゃないと、生活感のあるまちづくりは実現しないと、だからお互い真剣なんだと、そういうことです。普通はここまで言えませんよね。これじゃあ、浮気もできません。
(聞き書き・北原広子)
(2009年2月9日号掲載)
=写真=私と当時の市村郁夫町長で位置を決めた北斎館
(2009年2月9日号掲載)
=写真=私と当時の市村郁夫町長で位置を決めた北斎館