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18 鴎外・清張記念館〜設計前に作家知り 創造力を膨らませ〜

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 小布施のまちづくりを私が手掛けることになったきっかけというのは、親父が小布施堂の工場の手直しなんかをちょこちょことやっていたからなんです。小布施堂の市村郁夫さんが町長になって、まちづくりに取り組みたいという熱意と、私の考えが共鳴して繋がったということですね。

大切な「繋ぐ」精神
 この「繋ぐ」というのは、私が大切にしている精神です。風土も歴史も過去から現在への繋がりの中にあるわけですから、建築もその連続性を考えて位置付ける必要があると思います。小布施の町並修景では、公共の建物を基本構想を基に一貫した設計思想で通したことで、町全体が繋がり、町づくりの成功の一因になったと思います。

 小布施のプロジェクトが知られるようになると、全国から視察が増えました。すると新しい人との繋がりも生まれます。その一つが島根県津和野町の方々との交流でした。双方の住民が行き来するうちに、私は津和野のまちづくりにも関与するようになったのです。

 津和野は森鴎外の生誕の地です。子ども時代を過ごしただけですが、津和野藩の藩医を務めた家柄らしい質実剛健な武家の佇まいを残した生家があり、この隣に記念館を建てるということで、私が設計を担当することになりました。これは「しまね景観賞」を受賞し、建設省公共建築百選にも入りました。

 すると次は松本清張記念館のお話が来たのです。北九州市の方が北斎館と森鴎外記念館を見て興味を持ってくださったのでした。

 その時は松本清張の没後たった7年で、まだまだ生々しい大文豪でした。そんな人の記念館で、しかも小倉城趾公園の一隅という、いわば町の中心の立地です。

 一般市民の利便性や働きやすさといった合理性をまず考慮する市庁舎、役場などと違って、文学館というのは思想性や創造性のような、抽象的なものも入れ込まなければ作家に対して失礼ですし、訪れる人の心を打つことはできません。

 設計以前に、まず作家について知ることが必要になってきます。松本清張のような力強い作家に迫ることができるのか、正直なところ最初はひるむ気持ちがありました。幸い時間を頂けるということでしたから、まずは作品に触れようと、文藝春秋社の松本清張全集を購入して片っ端から読みました。

 浮かんだ「平明さ」
 全遍読破とまではいきませんが、清張の文学世界に浸るうちにイメージがわいてきました。そして浮かんできたのが「平明さ」ということです。まるで自分がその場にいるような文章の平明さです。

 結局、私は建築家の視点で文学も読んでしまうので、その平明さという概念が頭の中で建築物に変換されて、小倉の一角にあって決して威張らない外観だとか、城趾の外堀から入ると、そのままスッと足を踏み入れたくなるような入り口が浮かんできました。

 外階段には諏訪の鉄平石を使ったんですが、私としてはこれしかないと感じたからです。それが後になって、清張が諏訪の石切り場に取材に来ているし、鉄平石に興味を持っていたことを知った時はゾクゾクしました。文学館設計というのは創造力を膨らませられて、そこにはいない人との繋がりまで感じられる、私の好きな仕事です。
(聞き書き・北原広子)
(2009年2月14日号掲載)

=写真=北九州市の小倉城趾公園内にある松本清張記念館
 
宮本忠長さん