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19 日本建築学会賞〜建築家生命を懸け 市立博物館で受賞〜

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 長野市に事務所を設立して18年目の1982(昭和57)年、私の建築家人生に大きな弾みを付ける出来事がありました。前にもお話しました「日本建築学会賞」の受賞で、対象になったのは長野市立博物館です。

 市立博物館は、長野市が初めて指名競技設計方式、今でいうところの「コンペ」を採用した物件です。複数の業者に案を出させて選ぶわけですが、知名度も実力も全国トップクラスの六つの事務所が参加して競いました。

 設計条件、期間、審査員など、すべて正規ルールにのっとった立派なコンペティションで、地方の建築家が中央の建築家と争えるだけでも幸せでした。私もスタッフも命懸けというか、建築家生命を懸けるくらいの意気込みで取り組みました。

 私がイメージしたのは「大陸」です。広い庭園、広い湖のほとりで感じる雄大さを表現したかったのです。そのため、それまでやったことがないくらいの思い切って広いワンフロアで開放性を強調しました。

 無心な挑戦者のような心意気だったのが結果的に良かったのか、私どもの案が採用されることに決まりました。素直にうれしかったですね。建築で楽な仕事など元々ありませんが、特にこの時は初めてのコンペ方式だったことから、採用された案から実施設計に至る段階での市側との折衝など、双方にとって骨の折れることが多くありました。

 長野市がこの時以降、同じ方式を採用しなくなってしまったことが、折衝の大変さを物語っていると思います。私が主張を曲げないものだから、こんなにてこずる方法はこりごりだ、とでも思われてしまったのかもしれません。

 しかし、私が建築家として頑固だったことが、妥協して中途半端なものになるよりは、いい結果をもたらしたと思っています。長野県で初めてどころか、中央の建築家以外では稀な「建築学会賞」を受賞することができたのですから。

 丹下健三さんだとか、高名な建築家が何度も受賞されたり、年によっては「該当なし」であったり、地方在住の建築家の目には遠い中央の世界で持ち回りしているようにも感じられる、夢のような賞なのです。

 東京の佐藤事務所でそれなりの経験を積んで長野に戻ってから感じるのは東京と地方の格差です。風土に根差した建築を掲げたところで、正直なところ独り善がりになってしまうんじゃないかという焦りを感じることもありました。そんな時の受賞は私にとって大変重みのあるものでした。長野市にも感謝しなければなりません。

 市立博物館は「建設省公共建築百選」にも選ばれましてね。その時、当時の柳原正之市長が記念の石碑を設置したらどうかと言うから、僕は「それより建築学会賞の方が重要だ」みたいなことを申しましたら、「それは民間の賞だから」ということで却下でした。地方に行くほど官意識が強くなるのは一般的な傾向ですが、そういう考えは仕事の質という点からは残念ですね。結局、どっちの碑も設置されずにおります。
(聞き書き・北原広子)
(2009年2月21日号掲載)

=写真=日本建築学会賞を受賞した長野市立博物館
 
宮本忠長さん