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22 若手の育成 〜経験を積み重ねて地元で非常勤講師も〜

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 「風土と建築」の実践を決意して長野に戻り、今年で45年になります。書店に建築の専門書がない、建築を教える高等教育機関がない、建築家に対する意識の違いなど、当初は東京との格差の大きさに戸惑ったものでした。それでも失望せずにやってこられたのは、佐藤事務所での十分な修業期間中に、自分自身の思想を持つことができたからだと思います。

思い出深い謄々亭
 私が提唱して、今ではすっかり業界に浸透している概念に「修景」があります。「景観をあるべき姿に戻す」という意味で、小布施のまちづくりの時に使い始めた言葉ですね。この手法を掲げて伝統的な日本建築である数寄屋に応用した「謄々亭(とうとうてい)」は思い出深い作品です。

 広島銀行の保養施設として1990年に完工したものです。道路と建物との適切な位置関係、本格的な日本庭園と正面に宮島・厳島神社の大鳥居の見える美しい景観を生かす修景の技法を駆使できたことで自信を深めることができました。

 身近なところでは、長野市内の「グランドハイツ表参道」も、1階部分は修景の手法によってまちの景観を整えているわけです。

 建築物は長く残るものですから、建築家にはより重い責任感が求められます。実は私にも20代のころに担当した住宅で苦い思い出があります。その時は一人前のつもりで「こうあるべきだ」とお施主さんを説得するような進め方をして、うまくいったと思い込んでいたのですが、あんまり長くたたないうちに壊されてしまったのです。

 建築家というのは、いわば他人の家で自分の仕事をするわけですから、使う人の幸せを考えないといけないのに、自分の考えを押し通していたのだということに後で気付き、申し訳ないことをしたと思いました。

 今は皆さん若くて独立する傾向にあるようです。建築士の資格を取ると仕事はできるわけですからね。しかし私の考えでは、40歳くらいまではきちんとした事務所に所属して経験を積むのが望ましい。技術面の経験はもちろんですが、お施主さんの立場になるという余裕も、ある程度経験を積まないと生まれてこないと思うからです。

 私自身は、戦後の復興期に佐藤事務所で多様な経験をさせていただくことができ、長野という地方を拠点にしながら名誉あるさまざまな賞をいただき、一建築家としてこれ以上望むことはありません。

長野高専や信大で
 建築家であると同時に、地元の学校で非常勤講師として建築設計を講義できたのも幸いでした。国立長野高専では土木科の学生たちに73年から教え始めたのですが、昔は棟梁がリーダーになって建物を建て、それが今は建築家に分離発展してきたという、ちょっとした歴史を説明するだけでもびっくりされるような、そんな雰囲気でしたね。

 その後、信大工学部でも教えるようになりました。構造を教える先生はいても意匠の専門家がいないということで83年から2000年まで長期間、建築デザインを受け持ちました。非常勤講師の話はほかの大学からもいただきましたが、さすがにこれ以上やっていたら本業に影響するので「勘弁してください」とお断りしました。

 それでも、いくらかでも地元で若手の育成に役立てたのではないかと思っていますし、私の事務所に就職してくれる人が出てきたのもうれしかったですね。
(聞き書き・北原広子)
(2009年3月14日号掲載)
=写真=信大工学部の学生たちに囲まれて
 
宮本忠長さん