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01 〜裁判官を退官後 推されて〜

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[みた・こうじ](1865-?)
 埼玉県北埼玉郡持田村の出身。1886(明治19)年に判事登用試験に合格。静岡、沼津、横浜、東京の各区裁判所判事となり、1909(明治42)年から徳島、長野、千葉、旭川の各地方裁判所長を歴任。17(大正6)年に大審院判事となり、司法界を退官しました。

 その間、長野には地方裁判所長として10(明治43)年から5年間在任。第3代牧野元市長の死去により、推されて21年4月、長野市長に就任。同仁会、日赤長野支部、神社協会、婦人会、在郷軍人会など各種団体の役員にも推され、精力的に活躍しました。

 ところが同年10月、眼底出血のため倒れ、熊谷で療養しましたが12月に市長を辞任。この間、長野市に職業紹介所や貯金支局が設置され、長野(淀ケ橋)-須坂間に定期バスの運行が始められました。

 在任中、最大の行政成果は市立職業紹介所の設立と中央道路拡張計画を成立させたことでした。

 1918(大正7)年に第1次世界大戦が終わると、戦争景気によって一時的に膨張した日本経済は、海外市場の縮小とともに苦境に立たされました。

 19年から再び輸入超過となり、翌年には生産過剰から企業の縮小や倒産が相次ぎ、失業者が続出しました。

 そこで国は21年、職業安定所法を公布して失業者の救済と労働力の需要調節を図ろうとしました。

 長野市も市役所内に同年5月5日、市立職業紹介所を創設し、7月には県知事から紹介所の設備・職員定数が認可されました。

 市立職業紹介所が創設された21年の長野市の求人・求職の情況をみると、この年の後半は、ほぼ求人数が求職者を上回っておりました。

 求人者の職種は商業、家事使用人、鉱工業が上位を占め、求職者は雑業・商業が上位を占めていました。

 この長野市立職業紹介所の仕事は三田市政の後も引き続き行われ、23(大正12)年9月の関東大震災の罹災(りさい)者が400人も市の職業紹介所を訪れ、180余人が就職した-と信濃毎日新聞は報じています。
(2010年10月16日号掲載)
=写真=三田の肖像画(長野市蔵)