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14 矢筒城〜(飯綱町牟礼)牟礼盆地中央の城山丘陵一帯を城砦化〜

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 牟礼盆地の中央には標高567メートルの地元の人々が「城山」と呼んでいる独立丘陵がある。
 
 集落との比高は約60メートル。この城山一帯が矢筒城跡であり、城の鳥瞰(ちょうかん)図を見ると急崖(きゅうがい)になっている北西側を除いて、緩斜面の東南側は曲輪(くるわ)を幾重にも巡らして、丘陵一帯を城砦(じょうさい)化している。

 飯綱病院の駐車場脇に、道路を挟んで矢筒城への大手口があった。登り始めてすぐに山際に掘られたV字形の薬研(やげん)堀といわれる堀切の遺構に出合う。本郭までの所要時間は15分程度。

 広葉樹の大径木に囲まれた本郭の中央には平和観音像が立ち、現在は町民の憩いの場となっている。

 1979(昭和54)年以後、2度にわたる城跡の発掘調査により、現在の飯綱病院の場所が城主の館跡であることが立証され、山城と居館が合体した平山城であることが判明した。東南の山裾には200メートルに及ぶ内堀と土塁があったと書かれているが、病院建設のため一部は消滅したという。

 築城者は長沼城主であった島津氏。戦国期に入って山城が必要となったため領内の矢筒山に築城し、本拠を移したという記述が見られる。島津氏は村上義清に付いて武田軍の侵攻を阻止していたが、1553(天文22)年、村上氏の本城である葛尾城に次いで矢筒城も攻略されてしまい、北信濃の土豪たちは上杉氏の庇護(ひご)を求めて越後路を目指した。

 その後、幾度かにわたり川中島地方など善光寺平が合戦場となった上杉と武田の戦いで島津氏は上杉軍の旗下に入って参戦したが、武田氏が滅亡するまで本拠地に帰還することはできなかった。

 飯綱町牟礼は宿駅制度が開設されていなかった戦国時代から上杉軍が信濃出兵のつど通った街道であり、きわめて要衝の地であった。江戸時代になって北国街道が整備されてからは、加賀前田公など参勤交代の大名が通過した宿場であり、周辺の村々が潤ったことから加賀街道と呼ばれるようになったという。
(2010年10月16日号掲載)
 
続・山城紀行