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22 研究生活 〜得意のネーミング 地域おこしに一役〜

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 私は東京学芸大学に定年まで勤務しました。恩師の青野先生からの「学部長などになってはいけない。それより研究に励みなさい」という忠告を守り、研究に支障の出る役職には就きませんでしたが、たくさんの大学で非常勤講師をしました。

 東大で人気講座
 印象深いのは8年間通った東京大学です。大講堂に400人を超える学生が集まる人気講座になりました。東大ではほかの大学と違って、前から席が埋まります。講義が終わると質問に来る学生の列ができ、応じるのに30分以上かかりました。東北大学では板倉勝高教授が「君の話は面白いので聞かせてくれ」と、学生よりも前に陣取って受講していました。

 教科書の執筆依頼も、学芸大に赴任した途端に五つの出版社からあり、教科書まで情報は東京に集中していることをあらためて実感しました。後からの依頼を断ると「他社と同じ内容でもいい」とまで言う出版社があるのには驚きました。

 研究の成果は次々と発表しますので、全盛期には400字詰め原稿用紙で年間3000枚は執筆していました。ワープロを試みたこともありますが手の方が速く、結局今日までずっと手書きです。講演依頼も多く、書くのも話すのもネタに困ることはありません。話し始めると止まらないことから、フィールドワークでは「市川が来ると仕事にならない」と居留守を使おうとする聴き取り者もいました。

 ネーミングも得意で、遠山郷の下栗を「日本のチロル」、木祖村を「日曜画家の村」、王滝村を「縄文食のムラ」と名付けたのも私です。飯田市から小川路峠を越えての通勤が困難なことから「辞職峠」の異名があったり、かつては「日本のチベット」と呼ばれた遠山郷も、オリンピック開催で有名になったオーストリアの地域名「チロル」のおかげでイメージが向上。地域おこしにも一役買いました。今は交通の便も良くなりましたが、昔は車が通れません。下で分解してから運んで上の村落で組み立てるわけです。「車検がないから轢かれないように」とよく注意されました。

 木祖村のニックネームは、風光明媚というだけでなく、この村で絵画用カンバスの木枠が全国の7、8割も生産されていたことから発想したものです。日曜画家向けのイベントも定着し、ネーミングが村おこしに貢献したと思います。

  対馬海流に「青潮」
 学術的なものでは1989年、対馬海流に名付けた「青潮」があります。対馬海流はロシア人によるネーミングで、ほかの海流のような具体的な愛称がありませんでした。この海流は「黒潮」と呼ばれる日本海流の分流。塩分が濃厚で色が黒い。青が、古代には濃い色を意味していたのが命名の由来です。  

 日本では南島、東南アジア、ミクロネシアから伝播した文化、つまり太平洋側を洗って北東に進む黒潮地域の研究は盛んなのに、日本海沿岸に沿って北上し、樺太の西岸にまで達する対馬海流、つまり青潮地域のことは、ほとんど研究されていませんでした。

 そこで調査研究し、成果を「青潮文化-日本海をめぐる新文化論」として発表しました。黒潮文化と比較すると、例えば海女の北限は太平洋側ですと岩手県の久慈市小袖。しかし明治時代の日本海側では、北海道の礼文島で、志摩半島からの出稼ぎの海女が活躍していました。ついでに樺太にも日本の海女がいたのではないかと調べたのですが、残念ながら分かりませんでした。
(聞き書き・北原広子)
(2010年10月9日号掲載)

=写真=東京学芸大での最終講義
 
市川健夫さん