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23 県立歴史館長 〜「三際主義」実践提唱 親しまれる館目指す〜

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 県立歴史館の初代館長を2005年まで12年間務めました。実は、学芸大を定年退官後は私立の桜美林大学に行く予定で、長野に帰ろうとは思っていませんでした。ところが当時の吉村県知事から「歴史館をつくるから帰って来い。サケも故郷に戻るじゃないか」と説得されました。

 信州短大学長に
 県職員や歴史研究者など専門家からなる7人のメンバーによる専門委員会を設置。ここに私も加わり、歴史館の在りようについての検討を始めましたが、建物ができるのはまだ先。そこで、佐久市にある信州短期大学の教授・学長として長野に戻ることになりました。学長の仕事は、もっぱらハンコを押すことだといわれていました。ただ私は「観光地域振興論」など、自ら週3コマほどの講義を担当し、ほぼ毎日出勤していました。

 歴史館の開館は1994年です。専門委員会で私が提唱したのは「三際主義」の実践です。つまり「学際主義」「国際主義」「民際主義」の三原則です。一つの学問の枠にとらわれず、民俗、地理、考古学、歴史学など広い視野を持つことです。また信州だけの歴史を直線的に描くのではなくて、国際的な位置付けも大切だと考えました。

 日本の近代化を経済面で牽引したといっても過言でない製糸業を例に取ると、器械製糸への切り替えは須坂が一番早かった。岡谷より須坂です。生糸の国際市場が、ロンドンからニューヨークに移ったことを迅速に察知して、機に乗じる先見性が須坂市民にあったわけです。信州の歴史とはいえ、そういう国際的な観点で見ていかなくてはなりません。

 学問の枠にとらわれることの例としては、例えば高山村の遺跡から発見されたサケを挙げてみましょう。高山村を流れる松川は酸性のため魚がすめません。それなのに、かつてサケが食べられていた。

 となると、考古学の枠にとらわれていると「昔は松川が酸性ではなかったのではないか」という仮説を立てがちです。「よそからサケを運んできたのではないか」という、言われてみると自然の発想ができにくくなるというわなが学問の枠にはあります。特定の枠にとらわれない発想をする。学際主義はそのような意味です。

 展示方法としては「素人にも分かりやすい」を心掛けました。開館に当たり「常民共栄」というスローガンを私が筆で書いて掲げたのも、親しまれる歴史館を目指したかったからです。分かりやすい一般向けの講座を開講することで、リピーターを増やすようにしました。

 専門委員会で検討している時点で県が示した館の名称は「長野県歴史館」となっていました。私は正式名称として「長野県立信濃歴史館」という案を出しました。歴史を振り返るとその方が適切な表記ですが、実現しなかったのは残念でした。

 文化財保護審委員も
 私は県の文化財保護審議会の委員を22年間務め、そのうちの10年は会長でした。歴史館館長の就任後も、県との深い関係がプラスしていたと思います。もう一つ、この一見地味な審議会での議論で一時期大きな話題になったものに「食の文化財」があります。1981年に、私が「食の文化財を県が指定したらどうか」という提案をしたところ、食文化財は国の文化財保護法にないということで論争になり、マスコミでも大きく報道されました。結果的に長野県で、日本で初めて食文化財が保護されることになりました。
(聞き書き・北原広子)
(2010年10月16日号掲載)

=写真=初代館長を務めた県立歴史館(千曲市)

 
市川健夫さん