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02 生いたち 〜大家族の中で育つ 悲しかった妹の死〜

02-kuraishi-1106.jpg 僕は8人きょうだいの7番目として誕生しました。戸籍では1944(昭和19)年4月1日となっていますが、本当は3月29日生まれです。

 早生まれはかわいそうと、祖母が届けをずらしてくれたんですが、結局この日ではまだ早生まれのままだったんですね(笑)。でも早生まれでなければ、親友たちと同じ学年として会うこともなかったし、芸能界に入っていなかったかもしれないと思うと、不思議な気がします。

 当時は自宅で出産するのが当たり前で、きょうだい全員、お産婆さんが家に来て取り上げてくれました。僕が生まれた時、兄が見に来て「猿そっくりだ!」と言ったらしいですよ。

 つむじのそばに小さなはげがあるんですが、これは1歳にならないころ、寝ているところにガラス戸が倒れ、頭を切って大騒ぎになった名残です。そのけが以外は大病もせず、すくすく育ちました。 

 僕は戦中派で、生まれてすぐ防空壕を経験しているんですよ。記憶にはないんですが、空襲警報がなると「ピタッ!」と泣きやむ、聞き分けのいい子だったそうです(笑)。

 しかし4番目の兄が生まれて2,3カ月で亡くなり、また妹が小学校入学直前に事故死したため、僕は末っ子として成長することになります。少し複雑ですが、父の兄に子どもができなかったため、父が兄の養子に入りました。祖父は実は僕にとって伯父さん。戸籍上では孫ですが実際は甥っ子ということになります。

 両親は商売が忙しく子どもも大勢いたので、僕の面倒を見たのは祖母。祖母は三橋美智也さんと春日八郎さんの大ファンで、いつも二人のレコードを聞きながら育ちました。三橋さんとは後に雑誌の仕事でご一緒する機会があり、この話をしたところ僕を気に入ってくれて、ご自宅に遊びに行ったりもしました。たびたび誘ってくださいましたが、なかなか伺うことができず、もっと親しくしていたら祖母が喜んでくれたろうなと残念に思います。

 両親・祖父母ときょうだいの11人と住み込みの従業員5人合わせての大家族暮らしです。一回り年の離れた兄たちでしたが、小学生時代までは本気でけんかもしていました。2番目の兄は戌年、僕は申年の犬猿の仲で、結構良きけんか相手でした。

 でも3歳上の姉・初江とは仲が良く、一緒に遊ぶことが多かったですね。姉が赤い着物を着れば、僕も着たいと駄々をこねた記憶があります。僕の優しいといわれる性格は上2人が姉だったせいかもしれません。

 僕が小学3年の時、その悲しい事故は起きました。雨樋に引っ掛かったボールを取ろうと3歳年下の妹・冨喜子と2人で2階に上がったんです。ボールを下に投げた後、そのまま遊んでいた冨喜子が転落してしまったんです。頭から落ちたらしく「痛い!」「痛い!」と苦しみながら、入院して1週間後に息を引き取りました。

 一番かわいい盛りに失っただけに、母は10年以上、寝る前に写真を取り出しては泣いていました。どんなに子どもが大勢いても、やはり悲しいものなんだと子ども心にも思ったものです。

 何人子どもがいても一人一人に対する愛情は変わらないもの。10人いたら10倍と、親の愛情は大きくなるのかもしれません。母が泣いているのを見るたびに、親より先に死ぬのは本当に親を悲しませることなのだと思いました。もし妹が生きていたら一番仲が良かったかも-と心残りです。
(聞き書き・西沢よしえ)
(2010年11月6日号掲載)

=写真=赤ちゃんのころの私

 
倉石功さん