
そして「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ大鵬(たいほう)の志を知らんや」と諭し、常に勇猛心を奮い起こせ、と生徒を励ましたと言います。
また、こんなことがあったという。「校長室から雷のような大きないびきが聞こえてくる。見ると丸山校長は机に向かって、硯(すずり)に墨をすっている姿勢のまま眠っているのだ。無理もないことで、当時、同窓会館を建てる準備で毎晩10時、11時ごろまで忙しい日が幾日も続いたのであった。しばらくすると、真っ赤に充血した眼を開いて、また書きものや会議と八面六臂(ろっぴ)の活躍。こんなところに丸山校長の全力主義がピリピリ伝わってきた」と教え子は語っています。
「先生はテニスコートからボーン、ボーンとボールの音が朗らかに聞こえてくる晴れた日などは校長室から出て来られた。例の和服姿で、袴(はかま)の股立(ももだち)を高くとり、裸足(はだし)になって『どれ一つもんでやろうかな』とニコニコしながら生徒と組んで、庭球部のバリバリの生徒を相手に怪腕を振るわれたものである。先生の『山おろし』と評のある物すごいスピードのサーブは、ボーンと1本でよく極(きま)ったものである。皆がヤンヤと拍手を送ると、先生は『ヘッヘ』と軽く一笑、次の瞬間、またキッと真一文字に口を結ばれ、サーブに移るという調子であった」(同前の追想録)
丸山校長は卒業生の送別会の席で、巣立ち行くまな弟子のためによく杜甫(とほ)の次の詩を低吟されたといわれています。
貧交行
翻手作雲覆手雨
紛紛軽薄何須数
君不見管鮑貧時交 此道今人棄如土
「お前たちもこの詩のように、今後永久に変わらぬ強い友情に生きよと諭し、低吟されるときの新体詩風の名調子が今も耳底に残っている」と教え子は回想しています。
(2010年11月13日号掲載)
=写真=長商教諭時代の丸山