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03 実家と両親 〜スーパー魚力に勢い 堅実の大切さを学ぶ〜

03-kuraishi-1113p1.jpg 私の実家の「スーパー魚力」が誕生したのは1959(昭和34)年。創始者は祖父の力之助(りきのすけ)です。戦前から丸水の市場から仕入れては、リヤカーを引いて町や田舎に魚を売り歩いていました。仕出しをやるようになり、中央通りの自宅(現在の「こおむら」の位置)を店舗に改造してオープンしました。祖父の愛称の「リキさん」が魚力の屋号になったそうです。

 父の保四郎が2代目、そして3代目となる長男はとても勤勉で、ペガサスという団体に所属して企業家たちと一緒に、スーパーマーケットについて勉強をしていました。机を並べた当時の仲間には、「流通王」と呼ばれたダイエーの創業者・中内功、ヨークベニマルの創業者・大高善雄はじめ、流通業界のそうそうたる顔ぶれがいました。魚だけでなく乾物や総菜などの総合食品販売へと拡大し、長野県内初の大型スーパーとして話題になったものです。

 県内に38店展開
03-kuraishi-1113p2.jpg 父はたたき上げでしたが、12歳年上の長男を筆頭に、次男は営業、三男は経理と、3人の兄たちの努力で、10年足らずで県内に38店舗を出すまでに伸びました。伊那、飯田、諏訪、岡谷、須坂、上田、篠ノ井、旧市内では駅前、善光寺下、安茂里など勢いのすごさを、子どもながらに誇らしく感じていました。

 僕もいずれは経営を手伝うものと思っていました。中学時代は総菜のコロッケを揚げたり、店に出て販売を手伝いました。仕出しのようかんを大きなしゃもじで8の字に練ったりしました。後に料理番組に出演した時は、こんな経験も役に立ったような気がします。数学が得意だったのも、店で計算に慣れていたからかもしれません。

 父は本当に子煩悩で頼りになる人でした。自分のことより子どもや家族が最優先。私が俳優としてデビュー間もないころ、野沢菜の入った重い缶を提げ、「指がちぎれそうだ」と言いながら、バスで下宿まで来てくれたことがあります。「タクシーに乗るお金があれば、そのお金で子どもたちに何か買ってあげたい」と思う人でした。年商が50億あったころでも店を回るのはバスでしたから...。

 母も同じで、布団袋を背負い、上野までは列車、新宿駅からはバスを乗り継いで来てくれました。そんな両親からは、堅実に生きる大切さを学びました。

 強かった家族の愛情
 父はもめごとが嫌いで、長男には常に「きょうだい、仲良くしてくれ」と言っていました。長男はしかられると蔵に入れられたりしましたが、僕は一回も怒られたことがありません。末っ子だからかわいがられ、得をしたようです。親子、きょうだいの愛情は、今よりとても強かったように感じました。 

 自分が親孝行できたかなと思うのは、芸能界に入って世間に名前を知られるようになったことでしょうか。両親は映画を見るたびに、せりふを間違えるのではないかとハラハラしていたそうです。何回見ても同じ気持ちで心配しながら見てくれる。親心ですね。僕も自分の息子には、両親からもらった愛情と同じ気持ちで接しています。
(聞き書き・西沢よしえ)
(2010年11月13日号掲載)

=写真=中央通りに開店した魚力本店
=写真=父母と燕温泉で


 
倉石功さん