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03 〜奇人の五無斎と意気投合〜

28-kyoudoshi-1120p.jpg 奇人といわれた五無斎こと保科百助は1903(明治36)年10月、「私立保科塾設立予告」の広告を信濃毎日新聞紙上に出しました。その目的は「読書癖のある人物の養成」と「独学の精神の養成」で、教科目は国語、漢文の2科目(後で数学と英語を追加)。1カ年の修学で年中無休、授業は夜明けから旭山に日が沈むまでとし、授業料は1カ月5銭以上随意とし、物納でもよいとしました。

 参観人心得として▽ことさら礼服を着用するには及ばない▽教室内において放言、高談、喫煙、飲酒も可▽随時、飛び入り授業をしてもよい-など風変わりな決まりを作りました。保科塾は同年11月1日に開設され、当初は生徒30人でしたが、翌04年の2月には140人に増え、長野中学の生徒も25人通学していました。

 生徒は向学心に富み、中学校へ入学できない貧困者ということでしたが、韓国人や旧上田藩主の子息や地方名望家の子弟などさまざまでした。経営は授業料では間に合わず、困難を極めました。そんなとき、長野商業学校の教諭をしていた丸山弁三郎はほとんど無償で保科塾の講師を引き受けました。

 というのは、五無斎とは長野県師範学校の同窓生というよしみもあり、無欲恬淡(てんたん)な彼の心情に共鳴した丸山の行為だと言われています。
 夏の夕方など塾生の帰った後、五無斎と丸山は意気投合し、杯を交わすことも多かったと言います(元塾生の追憶)。

 後日、丸山は「五無斎評伝」の中で五無斎を評して次のように述べています。

 「あの日常の常軌を逸したやうな生活は、自分の真実の相を自分から歪(ゆが)めて見せる自己苛責(かしゃく)の筈(はず)であったのだ。

 氏は決して他人の私事を陰口したり、公衆の前にあばいたりすることをしなかった。他人の破廉恥(はれんち)罪とか不具病患とか云ふ社会的致命傷となるべき事を以て攻撃の材料とする事を忌み嫌った。

 あの垢染みた紋服と赤毛布との下に、常に純白にして清浄なる肌着と犢鼻褌(ふんどし)とを着ける事を忘れなかった潔癖と用意とを知るものは少なかったと思ふ」(抄出)
(2010年11月20日号掲載)
=写真=妻科に開設された保科塾(正面の2階建ての家)