
江戸時代初期(元和元年)からたびたび起きた善光寺本堂の火災の際は、仏様が西方寺に移され仮本堂とされた。同寺本堂のご本尊の右側には大本願の歴代尼公の大位牌(いはい)がずらりと並ぶ。
移されたのは仏様ばかりではない。1871(明治4)年、当時は今の中野市にあった県庁も、農民の焼き討ち(世直し一揆)にあって長野へ移り、西方寺の本堂を仮庁舎とした。本堂内に絨毯(じゅうたん)を敷き、革靴姿の役人が事務を執った。
境内南の道路端に小林一茶の句碑がある。
散る花や月入る方(かた)は
西方寺

さらに西に足を延ばせば、信大教育学部前にも一茶の句碑がある。
花散るや此の日は誰
が往生寺
一茶は皮肉屋でひねくれ者だった。
西方寺は、信州が誇る儒学者・冢田大峰(つかだたいほう)(1745〜1832)の菩提寺でもある。その気骨と反骨は、後の佐久間象山に並ぶ。尾張藩のトップブレーンになり、「寛政の五学」といわれた。門前桜小路の医家だった父は幕府の儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)や新井白石に学んだ。冢田一族は神奈川県に存続している。

金子英一住職はチベット語の権威で、東京外国語大学の講師や東京大学で講座を持ったキャリアがある。学生時代から在日チベット難民の支援を続け、ダライ・ラマ14世師の長兄と付き合いが長く、チベットに太いパイプを持つ。
今年6月には、大国・中国を相手に一歩も引けを取らないラマ師を同寺に招いて大仏の開眼供養を行い、法話を聴く会には500人近い市民が集まった。
同寺は東京・武蔵野市に別院を持つ。東京都民には、菩提寺と墓は親の故郷にあるが長らくご無沙汰というケースが少なくない。
今から40余年前、都内で学生生活を送っていた金子住職は、そんな人たちのために先代住職と相談して6畳一間を借り、「西方寺別院」の看板を掲げた。寺の新設を都に申請して認可されたまれな例という。今では夏の施餓鬼会に、別院の本堂は数百人の信徒で満杯になる。檀家数は長野の3倍。夫人が常駐して世話をしている。
(2010年10月30日号掲載)
=写真上=右側に並ぶのが大本願歴代上人の大位牌
=写真中=寺宝の観経曼荼羅
=写真下=新造のチベット大仏