
それが、丸山市政が始まって間もない1922(大正11)年3月初旬、岡田県知事は都市計画上合併が必要として、「三輪・芹田両村が自動的に併合の意見を決することを望む」と内務省に答申しました。
これに対して内務省は関係市町村に合併問題を諮問しました。これをきっかけに以後約1年間、各町村は紆余(うよ)曲折の中、さまざまな合併条件を提示しました。
長野市=合併に積極的。各町村へ条件提示(吉田へ電車と道路を、三輪へ道路整備を、芹田へ中御所分教場の設備改善と校舎拡張を)。
三輪村=電車敷設・道路整備を。
吉田町=電車敷設を22年7月中に起工し、23年7月に完成を。
芹田村=長野駅まで電車を敷設し、道路整備を-など6条件を提示。
また中途で合併対象になった古牧村も合併に賛成して、交通・財政・教育・農事・行政・市会議員の配置・財産等広範囲にわたった合併条件を表明しました。
丸山市長が1町3カ村の編入合併に際し腐心し実現させた案件は次の2点でありました。
その第1は、「古牧村は純農村で尚早」として、古牧村の合併に強硬に反対した内務省を説得し、同村の合併を実現したことであります。
その第2は、吉田町が求める合併の最大条件である長野-須坂間の電車敷設問題を解決したことであります。
22年9月、市は電車を私設経営と決定し、神津藤平を発起人総代として、資本金250万円(市150万円、町村100万円)の「長野電気軌道株式会社」を発足させました。
さらに23年2月、市協議会で電車敷設に対して15万円の補助決定がなされ、翌月には丸山市長の吉田町への説明や、市長と神津藤平との懇談がもたれ、市議会で補助は17万6000円に増額されました(『長野市誌第6巻歴史編近代2』)。
かくして、懸案の電車敷設問題は解決され、23年7月1日、芹田村、古牧村、三輪村、吉田町が長野市に編入されました。
そして同日、吉田町との協約にかかわる「長野電車創立総会」を城山の蔵春閣で開催し、電車を"須坂まで一気に敷設"が決議されました。
この1町3カ村の合併で、長野市の人口は一躍、3万人台の都市から6万人台の中都市に飛躍しました。
(2010年12月4日号掲載)
=写真=「松堂」の号が入った丸山の書「精華」