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07 ニューフェース〜研究所で演技の基礎 面倒見てくれた先輩〜

07-kuraishi-1211.jpg 1962(昭和37)年4月、大映ニューフェース試験に合格し、6月に入社しました。東京に出て一番驚いたのが人の多さです。当時はトロリーバスや都電も走っていて、交通機関にも目を奪われました。

 長野まで列車で5時間もかかる時代です。故郷が遠く感じられましたが、新天地はすべてが新鮮で楽しく、1年は里帰りしなかったほどです。

 「かんます」「とんでく」「ひっかけた」なんて言葉が、実は方言だったと知りましたが、イントネーションではあまり困りませんでした。

 姿勢から直され
 デビュー前の半年間は、演技研究所で役者としての基礎を学びましたが、まず直されたのが姿勢。背が高かったため猫背になっていて、「背筋を伸ばして歩け」と、よく注意されました。

 舞台の演技や滑舌など、一日6時間のレッスンですが、日舞の稽古では、着物を着たこともなく、先生が吹き出すほどの木偶(でく)の坊状態。茶道では正座ができず、20分も座っていると足がしびれ立ち上がれなくて参りました。

 レッスンで役に立ったのはボクシングかな。調布のアベジムまで通いました。『制服の狼』でボクサー役。「ザ・ガードマン」はアクションも多かったですから。

 当時、撮影所でやくざ映画を撮っていたことがありましたが、本物のやくざの集団のようで、研究生の僕から見ると怖くて教室から出られないくらいの迫力でした。

 そんな中の一人に5歳先輩で、のちに勝プロに所属した九段吾郎さんがいました。ある日突然、頼んでもいないのに「お前のボディーガードになる!」と宣言して、付き人のように接してくれたんです。僕がスター候補生だったせいか、研究所に入った途端、取り巻きが何人もできましたが、九段さんは特に面倒を見てくれました。けんかが強くて、その強面(こわもて)の風貌のせいか新宿ではかなり顔が利いていたようです。

 昼間はレッスン、夜は彼に連れられて都会の裏側を見せてもらいました。流行にも詳しくて、洋服や靴などの最先端のファッションやしゃれた店など、随分教えてもらいました。

 新宿のジャズ喫茶「ヨット」ではアートブレーキーやレイ・チャールズなど、半日でもモダンジャズに浸っていました。見たことも聞いたこともない世界に触れ、一気に大人になったような気がしたものです。僕はお金はありませんでしたが、彼のおかげで新宿の裏通りを一人で歩けるほどになりましたよ(笑)。作品のジャンルが違うので共演こそありませんでしたが、20年くらい付き合いました。

浜田さんと仲良く
 日活の青春スターだった浜田光夫さんは、会社は違いますが仲の良い友人の一人で、2人で思い出話をする機会がありました。

 「大映にすごいぼんぼんが入った」といううわさが流れたんだそうです。実家のスーパーマーケットの業績が伸びたのは63(昭和38)年ごろ。世間では僕が稼いで貢いだように言う人もいましたが、本当は逆で実家から仕送りしてもらっていたんです。まだ研究生のため、会社からは交通費として6000円支給されただけで家賃を支払うのがやっと。6畳一間からの俳優人生のスタートでした。
(聞き書き・西沢よしえ)
(2010年12月11日号掲載)

=写真=大映演技研究所時代の私

 
倉石功さん