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08 映画デビュー 〜手取り足取り指導 立て続けに4本出演〜

08-kuraishi-1218p.jpg 大映演技研究所を卒業して初めて出演した映画が、島耕二監督の『停年退職』(1963年)でした。同期には有名人の2世俳優がいる中での起用でした。

 研究所で勉強はしたものの、現場では分からないことも多かったですね。面白いエピソードもたくさんありますよ。業界用語で「笑って」というのは「なくす」こと。小道具を片付けたり、その場からいなくなることですが、本当に声を出して笑った人がいたそうです。僕はやらなかったですけどね(笑)。

  映画界の符丁に困惑
 いろんな符丁があって「雪州」とは背の低い人のための踏み台のこと。「多摩川寄り」は右側、「日活寄り」は左側のことなど、撮影所ならではの符丁を覚えるのも大変でした。体が大きかったので衣装合わせも一苦労でしたね。合うサイズの服がなく、「不経済なやつだ」なんて言われました。

 たまたま身長が同じだった田宮二郎さんの衣装を借りたところ、脚の長さが10センチくらいも短くて駄目。それを聞いた田宮さんは非常に不機嫌になってしまったそうです。

 島監督は優しい人でNGを出しても「大丈夫、大丈夫。Zの英ちゃんがいるんだから」と慰められました。間違えるたびにABC...と順番を付けていたところ、ZまでいってAに戻ったという逸話を残したツワモノが、何と主演の船越英二さん。でも『停年退職』の時は、そんなにNGは出していませんでしたけどね。

 お姉さん役は、後に田宮二郎夫人となった藤由紀子さんです。テレビドラマの「人間の条件」を見て知っていたので、こんなきれいな人の弟役になれたとうれしかったです。

 撮影前に何回もテストをするのにはびっくりしました。半年間、演技の稽古はしたけれど、ほとんど素人みたいなものです。島監督は役者出身だけに、こういう感情だからこういうふうにしゃべりなさい、と手取り足取り優しく教えてくれました。

 頭ごなしに怒るのではなく、褒めて良いところを引き出す。当時では珍しいタイプの監督でした。

 スターというものを意識させるためか、「スターは芝居ができなくても、スクリーンに出て輝いているだけでいいんだ。うまい芝居は脇の役目なんだから」と、今から思えばとんでもないアドバイスをする人も大勢いました。

  1作目から気楽に
 そんな中で、感受性を磨く大切さを助言してくれたのが、助監督を務めていた村野鐵太郎さんです。「本を読めよ」とか「芝居を見るのも勉強だから」と言われ、先輩が芝居をしているんだからと出番がないのに最後まで撮影に付き合わされたりしました。村野さんはのちに石原裕次郎さん主演の『富士山頂』の監督をしています。

 残念ながら島監督とはこの1本だけでしたが、デビューが役者経験のある監督の作品だったのは、とても幸せなことでした。

 僕はスタッフと仲良くなって、随分助けてもらいました。1作目から気楽に映画界に入れたのはラッキーでしたね。この後、わずか半年間に『若い樹々』『黒の死球』『高校三年生』と立て続けに出演しました。

 これは好調かと思ったら、次の『続・高校三年生』がクランクインするまで8カ月もかかり、思いもよらぬブランクの始まりでした。
(聞き書き・西沢よしえ)
(2010年12月18日号掲載)

=写真=『停年退職』に藤由紀子さんの弟役で初出演

 
倉石功さん