
城跡と旭山の間に勝手沢が入り込んでおり、東方には裾花川が流れ、夏目原組集落との比高は50メートルと少ないが、起伏に富んだ地形に築かれた山城である。
城跡へは朝日山観世音へ行く途中の夏目原組地区の五差路から親水公園へ向かう。公園近くの左手山頂に城跡があり、二つの堀切を経て畑地となっている本郭跡がある。西南方面は勝手沢の急崖で防護し、東方は帯状に曲輪(くるわ)の遺構が本郭を囲んでいる。本郭北側には浄水場の公園があるため、山城の遺構が改変され、あるいは消滅した部分も多いと思われる。
戦国期には当城主と思われる小柴見氏の名前が文献に見られるが、小市に居館があり、吉窪(よしくぼ)城を詰め城としていた小田切氏に属していたという。1400(応永7)年、信濃守護の小笠原氏の支配が強まってきたことに反抗した東北信の土豪たちが一斉に蜂起して戦った「大塔の戦い」で、小柴見氏は一揆側の小田切氏の配下で参戦していたものと推察される。
1557(弘治3)年、武田軍の葛山(かつらやま)城攻めでは籠城して戦った落合氏、小田切氏など多くの葛山衆が戦死し落城したが、小田切氏の配下で参戦していたと思われる小柴見氏の生死について、明確に書かれたものには出合っていない。小柴見氏はいったん、武田氏に下り、5年後の1562(永禄5)年に上杉氏に内応したため、武田氏によって成敗されたという記述も見られる。
小柴見城と小柴見氏についてはその存在を含めて未知の部分が多かったが、山城探訪によって善光寺平の支配者の中で、小土豪であった小柴見氏の存在をあらためて認識したのである。室町時代の信濃守護所のあった場所が、長野市中御所の天満宮の場所といわれており、小柴見城は守護所の詰め城ではなかったかという説もある。
(2010年12月25日号掲載)
=写真=左手山頂が小柴見城跡