
信仰心の厚い関西人は、善光寺参拝の後、往生寺の参拝を欠かさなかった。かつては、境内に関西弁があふれていた。善光寺で極楽行きの切符を頂けば、わが往生の行き先の光景をのぞいて見たいのが人情だ。
善光寺本堂の北西小路を経て、湯福神社前から長野西高校門前の急坂を一直線に上り詰める。現在はリンゴ園を貫く農道に過ぎないが、明治・大正はもとより戦後も昭和30年代まで「参拝者はアリの行列のようでした。道の左右にはリンゴ屋や土産店が並び、昼時には往生寺の欄干は握り飯を食べる信者で鈴なりでした」と水野善朝住職は往時を懐かしむ。
ところが、近年の観光バス旅行が往生寺参拝者を激減させた。「極楽往生の風景は展望道路を走るバスの窓から一瞥(いちべつ)して、渋温泉・志賀高原へ急ぎましょう。一風呂浴びて、宴会は6時から」といった具合で、旅程の短縮を図るようになった。
何とも味気ない事態だが、筆者は春の新緑から晩秋の紅葉時まで、閑散とした境内に客人を案内して好評だ。眼下に善光寺本堂と市街地、遠くには千曲川がかすむ。「まあ、本当に極楽のようですね。このお寺に来なければ、善光寺信仰の神髄はわかりません」と皆口をそろえる。
市街地で育った人は、誰でも一度は参拝しているはずだ。保育園の年長組か小学1年生の春の遠足は雲上殿か往生寺だった。意外に近くて安全な道程で景色が良い。しかも、幼児でも「山に登ったなあ」という達成感がある。

童謡「夕焼小焼」の作曲者・草川信(くさかわしん)が曲想を得た寺としても知られる。「戦後、安茂里のお寺とモデルの地を争い、映画ニュースで報道されたこともありました」と住職夫人。
市内県町に育った草川は、両方の寺の音を聴いた...ということにして、由緒争いに折り合いをつけたという。同寺の名物「夕焼の鐘」の音色を除夜の鐘で聞いた市民もいるだろう。
そんな同寺も今はシカ、キツネ、タヌキ、ハクビシン、熊などの出没に悩んでいる。西山につながる裏山に、数が増え過ぎてやって来るようになったからだ。以前の遠足の地に、子どもたちの姿はすっかり消えてしまった。
(2011年1月22日号掲載)
=写真=夕焼の鐘(手前)と本堂