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18 老人介護 ただならぬ事態 (4)

 表題の「ただならぬ事態」は本当は頭にこのを入れて「老人介護 このただならぬ事態」として、ただならぬことを際立たせたかったのだった。

 私も80を超えた老人で遠からず介護される立場であり、父母を介護してきた経験もあって、さしてためらうことなく「ただならぬ」と無遠慮に書いてしまったのだが、いま介護されているただ中にある立場に立って考えると、心中、穏やかではなかろうと思う。追い打ちをかけられるような非情さがあるからだ。

 否応なしの現実
 いつのころからか「老々介護」という新語が登場した。大きなため息をつきながらも認めざるを得ない、否(いや)応なしの現実がそにある。こんな歌がある。

 認知症病む足腰強き母の世話 足腰弱き父がみており(椎名 昭雄)
 足腰の強きことも弱きことも分からなくなった母と、その母を愛し、尽くす父。
 
 木のいのち妻にそそげと手のひらを 幹に当てさせしばらく立たす(桑原 正紀)
 夫に素直に従う哀(かな)しき妻の手と、木の精に「妻よ目覚めよ」と祈念する夫。
 
 同室の老女九十二歳逝く その家人の一度も見しことなきに(桑原 正紀)
 介護士がオムツ交換せんとするに 人殺し呼ばはりして拒みゐる(桑原 正紀)

 哀れを超えて凄絶(せいぜつ)な人生がそこにある。冷たくやりきれない末期(まつご)。親切を仇(あだ)で、を超えて尊厳とや言わん、業(ごう)とや言わん。

 わが命生きながらえて老い母の 尿(しと)取る幸に遇(あ)いにけるかな(原  鉄也)
 生き永らえたことによって、母の末期近き日に会えた悦(よろこ)び-。それが「尿取る幸(さち)」に凝縮されている。「幸」の持つ計り難き重さ。まぶしいほどに輝いている老いたる母と子。永六輔氏の『大往生』にこんな件(くだり)がある。
 昔、お母さんにおむつを取りかえて貰(もら)ったように、お母さんのおむつが取りかえられるかい。老人 介護って、そういうことだよ。

 人生さまざま 思い通りには...
 斎藤恵美子氏の詩集『最後の椅子』を読んだ詩人清岡卓行氏は「老人たちの姿を活写」のなかでこう述べている。

 老人たちを立たせてオムツを外すと、うんちが落ちてきて、介護の手がそれを受け、便器に流すことがある。その場合、老人たちの反応はいろいろだ。介護者を拝む人。「親御さんに申しわけない」と言う人。そんなことしてなにが面白いと呆(あき)れる人。
 たまには、こんな現場がある。食堂の丸テーブルを囲む三人のうち、老爺が椅子ごと転倒し、床に血が流れ、救急隊が来るが、ともに食事していた老婆二人は素知らぬ顔で、自分たちの豆腐の無事をのんびり眺める。

 人生さまざま。末期の迎え方は実に多様だ。人の一生は計算づくにはいかない。思い通りになんか運ばないのが常で、むしろ挫折や不測の事態に直面することの方が普通だといえる。そうあることを覚悟し、それを自分に言い聞かせておかねばならないのである。大勢の集まりの中で最高齢者が長生きする可能性もあれば、若い人が早く逝くことだって、避けられない事実としてそこにある。年の順ではないところが妙味というものだ。

 雪舟の「山水長巻」、横山大観の「生々流転」を思い描くまでもなく、源流の一滴が奔湍(ほんたん)(激流)岩を噛(か)んで海に注ぐまで、その曲折は人の一生そのものだといえる。
(「ただならぬ事態」の項おわり)
(2011年1月15日号掲載)
 
美しい晩年