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07 〜善光寺平の水利事業完成〜

32-kyoudoshi-0129p.jpg 1924(大正13)年には大干ばつがあり、県内各地で水争いが起きました。特に灌漑(かんがい)の源泉を裾花川に頼る善光寺平の水不足は深刻なものがありました。

 裾花川の谷口にある妻科地区には、同川の分流堰(ぜき)である鐘鋳(かない)堰(上流)と八幡堰(下流)の二つの取り入れ口がありました。両堰の取水量の配分は1日の取水時間数をもとに慣行により行われておりました。しかし干ばつで水不足の年などは、取水の時期、灌漑面積の相違などをめぐって我田引水、水争いは容易に解決できることではありませんでした。

 この年の8月18日、鐘鋳川水系の三輪村他13集落の住民約400人が簑笠(みのかさ)・脚絆(きゃはん)・草鞋(わらじ)の装いで筵旗(むしろばた)を押し立てて県庁に押し寄せ、知事に面談し陳情しようとしました。

 知事が不在だったので内務部長に面会を求め、「お願いだお願いだ」と叫びながら大階段を駆け上り、部長室前の廊下は陳情団によって埋めつくされ「凄惨(せいさん)の気は県庁内に漂った」と当時の新聞は報じています。

 事の起こりは前日、八幡堰側が鐘鋳堰の取り入れ口の施設を壊し、鐘鋳川へ水が流れなくなったことからでした。この日の陳情団の中には12〜13歳の少年8、9人、腰の曲がった老婆も参加し、調停が成立するまで参加者は午砲が鳴っても握り飯を食べなかったそうです。

 この日の陳情では問題は解決せず、やがて両者の紛争は法廷闘争に持ち込まれ、翌月9月21日に第1回公判が開かれました。最大の争点は両者の取水時間要求の違いでした。鐘鋳堰側は午前4時から午後4時までの12時間の主張で、八幡堰側は灌漑面積の広さから午後7時までの15時間を強く主張して妥協できなかったのです。

 両者の主張にはそれぞれ、もっともな理由があり、容易に解決できる問題ではありませんでした。その根本には慢性的な水不足の問題があり、それを解消するには懸案の犀川の水を活用する以外にありませんでした。

 かくして、善光寺平耕地整理組合(会長・丸山弁三郎)により1936(昭和11)年、犀川揚水事業を基幹とする八幡・山王・鐘鋳・犀裾川合新田の4用水組合を含む水田面積1700ヘクタールに及ぶ善光寺平の水利事業が完成し、灌漑用水をめぐる紛争はなくなりました。
(2011年1月29日号掲載)

=写真=県庁西側にある完成記念碑