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10 〜衆院で斎藤隆夫除名に反対〜

35-kyoudoshi-0226p.jpg 丸山弁三郎は1934(昭和9)年4月の市長選で4選が成らず、3期12年で市長職を去りました。

 その後37年4月、第20回衆議院議員総選挙に立候補して当選、立憲政友会に所属します。丸山が国会議員在任中に斎藤隆夫の除名問題が起きました。

 斎藤は弁護士から政界に入り民政党に所属し、二・二六事件直後に粛軍演説で陸軍を批判。40年、日中戦争処理に関する質問演説のため議員を除名され、第2次大戦後、進歩党の結成に当たりました。

 40年2月1日のことです。衆議院本会議において民政党の代議士・斎藤隆夫は、首相の米内光政に対して日華事変処理対策に関する質問をしました。

 斎藤は烈々たる気迫と雄弁をもって、陸軍の独断専行を批判したのです。その場においては、誰一人として、これを問題にする人はいませんでした。

 しかし、その直後に陸軍省政府委員室でこの質問演説が問題になり、「聖戦」を冒涜(ぼうとく)するものとして厳しい非難が巻き起こりました。そのころ、陸軍はすでに政界に強い圧力を及ぼしていたので、当時の民政党総裁・町田忠治はこの問題が自党に波及することを恐れました。

 そこで、あくる日斎藤に対して離党勧告を行い、斎藤も党のために受け入れました。しかし、陸軍はそんなことでは納得しませんでした。陸軍は衆議院に対して自発的に斎藤を除名するよう要求してきました。

 やがて斎藤除名の件が議会に上程された時、これに敢然として反対した議員が5人いました。それは、牧野良三、宮脇長吉、名川侃吉、芦田均、丸山弁三郎の5人でした。いずれも政友会の所属でありました。

 しかし、圧倒的多数で斎藤除名の件は可決され、憂国の士、斎藤隆夫は衆議院から除籍されるに至りました。このことによって政党は完全に陸軍に屈し、我が国はやがて太平洋戦争へ突入していくのです。

 除名可決の報に接した同郷の貴族院議員・小坂順造は「丸山君はさすがに立派だなー」とその行為を称揚(しょうよう)したと伝えられています。
 (2011年2月26日号掲載)
 5代丸山弁三郎の項おわり

=写真=衆院議員当選時の丸山(右)