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14 永田ラッパ 〜大変なワンマン社長 大映倒産の危機招く〜

14-kuraishi-0205p.jpg 「大日本映画制作会社(大映)」が創立されたのは1942年。初代社長は作家の菊池寛さんです。僕が入った時は2代目の永田雅一社長でした。大言壮語を吹きまくることから、ついた渾名(あだな)が「永田ラッパ」。数字に強くて、年頭のあいさつでは観客数・収益・経費など資料を全く見ないで話す、すごい人でしたね。

 当時の看板役者は長谷川一夫さん、市川雷蔵さん、勝新太郎さん、田宮二郎さん、本郷功次郎さん、京マチ子さん、山本富士子さん、若尾文子さん、野添ひとみさん。その他若手俳優がずらりといました。新年会には全員が顔をそろえ、それは壮観でした。

面白く魅力的な人物
 永田社長の活動屋としての原点は日活京都撮影所ですが、案内係をしていた時からしゃべりのうまさは抜きん出ていたそうです。大映設立時に専務の自分が社長になるのはと、作家の菊池寛さんを社長に据えたそうです。

 永田社長はたたき上げのせいか、社員には一流企業の社長や政治家の御曹司を多く採用したようです。彼らは裕福な家庭の育ちなのでマネジャーや付き人的なことは気が付かず、本来の仕事である荷物持ちはしてくれません。だから地方に舞台あいさつに行く時も、全部自分で荷物を持ちました。自分のことは自分でやる、今の僕には随分役立っていますが(苦笑)。

 実は芸名も永田社長が付けていたんですが、その発想は東海道線の駅名だったそうです。東京子(あずまきょうこ)さんに始まり、品川隆二さん、川崎敬三さん、鶴見辰吾さんと聞かされ、あぜん! 僕は周りに同じ苗字の俳優がいなかったので本名のままデビューしました。任せていたら、どこの駅になっていたんでしょうね(笑)。

 歌う俳優が人気の時代とあって、永田社長はレコード会社も設立し、主演クラスの俳優は全員レコードを出さされました。僕も先輩でもあり、よく飲みに誘ってくれた猪股公章さんにお願いしたところ、「良かったら、この曲を歌ってみるかい?」と弾いてくれたのが、なんと森進一さんで大ヒットした「おふくろさん」。

 僕は都会的なムード歌謡がよかったので、「銀座艶歌」という歌を作ってもらいました。今でもそのレコードは大切に持っています。全然売れませんでしたが! もし僕が歌っていたら、あの名曲の「おふくろさん」は生まれなかったでしょうね(笑)

 永田社長はとても面白くて魅力的な人物でしたが、大変なワンマン社長。しかも好きなものの順位は、1番が野球、2番は競馬、3番が政治、映画はその次でした。馬のオーナーだけでなく、無類の野球好きで「大毎オリオンズ」のオーナーにもなり、南千住に東京スタジアムまで建築しました。

野球選手にはお年玉
 野球選手は正月になると、たくさんのお年玉をもらっていたそうですが、映画俳優にお年玉はなし。大映テレビ室もしかりで、「ザ・ガードマン」が当たったものの利益はみんな他につぎ込まれてしまったようです。

 映画の企画も社長の意向が最優先。新しもの好きで、日本初の70ミリ映画『釈迦』『秦・始皇帝』と続けて製作しました。永田社長は熱心な日蓮信者としても知られていますが、自身の信仰心から『釈迦』を撮ったようです。しかし莫大な製作費をかけたものの興行的には失敗し、かなりの赤字だったようです。

 契約をめぐり反旗を翻した山本富士子さんと、確執のあった田宮二郎さんを解雇。長谷川一夫さんは引退し、市川雷蔵さんも亡くなり、映画界の斜陽もあって1971年12月、ついに倒産してしまいました。善かれあしかれ、永田社長のワンマン経営が原因の一つともいわれています。
 僕が入社して9年目の出来事でした。

(聞き書き・西沢よしえ)
(2011年2月5日号掲載)

=写真=大映デビュー時のブロマイド

 
倉石功さん