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16 吉窪城(小田切)〜城主の小田切氏が土豪七騎衆を統率〜

16-yamashiro-0205.jpg 長野市街から国道19号を南下すると小田切(おたぎり)ダムがある。犀川に架かる両郡橋の手前から右折し、細い車道を上がり切ると吉窪集落に出る。集落の小路で標識を見つけ、下車して城跡へ向かう。

 杉林を過ぎると古墳が点々と残る畑地で、巨岩の直下を過ぎると縦掘りの遺構があり、その先に城跡の虎口があった。城跡中央には飯綱稲荷社など神々の祠(ほこら)が並び、厳粛な気分にさせられる。

 城跡に立てられた由来によると、城主は鎌倉時代に佐久郡臼田小田切郷から地頭として赴任してきた小田切氏とある。戦国期の城主は小田切駿河守幸長。春日、朝日、長嶺、久保寺(窪寺)、平林、布施、横山など地元の土豪七騎衆を率いた武将であったという。

 1557(弘治3)年2月、武田軍の馬場信春が6000の兵で隣接の葛山城を急襲したとき、葛山城主の落合氏、葛山衆、援軍の吉窪城主・小田切氏などが籠城したのであるが、火攻めに遭って落城してしまった。

 城主はじめ援軍の小田切氏、多くの葛山衆が討ち死にし、城内にいた女性たちも北方の谷に身を投げて亡くなったという。この谷を「姫谷」と呼んで、悲話を今に伝えている。葛山城落城の知らせを受け、吉窪城を守備していた小田切幸長一子民部少輔は逃亡してしまい、吉窪城は自落した。

 城跡は大土塁、天水溜、崩落した石塁などの遺構が認められ、城跡の姿をわずかにとどめていた。
 灌木の繁みの中に城山を詠じた歌碑があった。

 あとふりて松風寒し
 城山のむかしを語れ
 秋の夜の月

 作者は「信濃の国」の作詞者である浅井洌。

 吉窪集落には北条時頼が出家して諸国巡行をしていたとき、当地を訪れ名付けたといわれる西明寺の観音堂があり、信濃八番札所として信仰を集めてきた霊場である。

 帰路、小市の小田切氏居館跡に立ち寄ったが、一部は松ケ丘小学校の敷地となり、武士たちの居住地もあったらしいが開発が進んでそれらをとどめるものは確認できなかった。
(2011年2月5日号掲載)

 
続・山城紀行