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01 〜わずか2カ月弱の市政に〜

36-kyoudoshi-0312p.jpg 〔ななさわ・せいすけ〕(1873〜1967)
 ▽更級郡原村(現長野市川中島町)の井口家に生まれる▽長野中学(現長野高校)から東京物理学校(現東京理科大学)に進む▽長野市の七沢家(風月堂)に入籍▽長野市会議員を3期務める▽この間、1922(大正11)年に信濃電機(株)の支配人となる▽24年新潟県黒井に信越窒素肥料(株)(現信越化学工業(株))を設立し、取締役となる▽1934(昭和9)年4〜6月、6代目の長野市長▽退任後、40年に長野信用金庫の理事、43年専務理事、54年に理事長、61年に会長に就任。66年の退任後は顧問に▽県信用金庫協会長などの要職を歴任▽67年死去。94歳。

      ◇
 34年4月25日、市長選挙のための長野市会が招集された。定刻の14時、36人の議員全員が出席して開かれた。傍聴席は開会前から満員で立錐(りっすい)の余地もなく、警察官10数人が物々しく警戒の陣を張った。

 まず高野助役が市長選挙のため市会を招集した旨宣し、諏訪部議長が所定の手続きを取った上で議事に入った。この時、船坂恒久氏(丸山派)が発言を求め「市の平和のため、本日の選挙市会を3日間延期する」ことの動議を出したが、尾崎章一氏(七沢派)が「即時、選挙をすべし」と主張。議長は尾崎説を採用し直ちに選挙に移ることを宣告。投票の結果は七沢清助18票、丸山弁三郎17票、白票1票で七沢清助の当選が決定した。

 しかし、選挙が終わった翌日、突然、両派の市議10数人が取り調べを受け、数名が起訴された。それはまさに疾風迅雷の手入れで、そのほとんどが買収供応に原因するものであった。

 その上、その春に行われた貴族院多額納税議員選挙の違反事件も絡んで、正副議長はじめ12議員が収容され、市議会は定員の3分の1を喪失した。自治組織の末端である区長の辞任も52人に達し、市民感情は両派に分かれて先鋭化し、市政は混乱し停止状態となった。

 憂慮すべき事態ではあったが、丸山、七沢の両氏に陰影はまったくなく清浄・潔白そのものであった。やがて、この混乱を収拾すべく七沢市長は6月12日に辞任し、これに呼応した丸山弁三郎前市長の「一粒の麦地に落ちて死なずば唯一つにて在らむ。若し死なば多くの果を結ぶべし」との市長選不出馬声明により、この紛糾は解決した。(『丸山弁三郎追想録』中、伊東淑太氏の寄稿文による)
(2011年3月12日号掲載)

=写真=七沢清助の肖像画(長野市蔵)