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02 〜長野信金の成長に尽力〜

37-kyoudoshi-0319p.jpg 七沢清助は1934(昭和9)年7月、市長を辞任してからは、きっぱりと政治活動とは縁を切り、専ら金融業を中心とする経済活動の先達となりました。

 七沢は40年2月、長野信用金庫の前身であった長野市庶民信用組合の常勤理事に就任し、続いて43年11月には同組合専務理事に昇任し、組合事務の中枢を担うようになりました。

 戦後、48年12月に同組合は長野信用組合と改称し、51年10月には長野信用金庫に改組されましたが、七沢は引き続き専務理事の要職に就いていました。一時は病気療養のため休養を余儀なくされていましたが、54年3月、第2代の宮下友雄理事長の急逝に伴い同年4月、その後任に起用されました。

 3代目の長野信用金庫理事長に就任した七沢は長野市庶民信用組合の創業以来の長野地域の名望家として、また事業家として、その敏腕、力量が買われたのです。

 彼が在任した理事長・会長時代の54年から67年に至る約12年間は、日本の高度経済成長期で、特に55年から57年は神武景気、59年から61年が岩戸景気と呼ばれる好景気が続き、日本経済が急速に発展した時期でありました。60年に成立した池田勇人内閣は「所得倍増」をスローガンに高度経済成長政策を推し進め、産業界は盛んに設備投資を行いました。

 その結果、金融業を中心とした企業集団が大きな力を持つようになり、その余波を受けて地方金融機関である長野信用金庫も急速な成長と発展を遂げました。預金高は56年3月の21億5600万円が2年後の3月には35億1799万円に増加し、純利益も急速に増加していきました(『長野信金五十年史』)。

 七沢は67年2月、長野信金の現職会長のまま死去しましたが、在任中に功績が認められ、60年には長野市の名誉市民に列せられ、65年10月には勲四等瑞宝章の栄誉に輝きました。

 長野信用金庫の成長と発展に尽くした七沢の足跡は大きく、また直接、間接に長野市域の経済発展に寄与すること大なるものがありました。
(2011年3月19日号掲載)
 6代七沢清助の項おわり

=写真=旧長野信金本店(1945年撮影)