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112 明行寺 〜花街・権堂で蓮のような寺〜

112-rekishi-0312p.jpg 権堂町にある唯一の寺・明行寺(みょうぎょうじ)の名前を知ったのは、文豪・森鴎外の年譜や日乗(日記)を読んだのが契機だった。当時21歳の鴎外は1882(明治15)年2月27日、裏権堂町の「英屋(はなぶさや)」に泊まった。遊女のいる茶屋(=旅館)である。

 鴎外の信越出張の任務は徴兵行政の指導。東大医学部を8番の成績で卒業し、陸軍医官になったばかりの超エリートだ。手当も潤沢だったはず。本来なら、本陣だった大門町の藤屋旅館に泊まるべきなのに、なぜ色茶屋に?

 当時、成績3番までの同級生は即ドイツ留学生になったが、「なんと、我輩は不合格!」。秀才だった鴎外にとっては、生まれて初めての挫折だったろう。善光寺門前で"精進落とし"をしたらしい。後にドイツで遊び過ぎ、エリス嬢に日本まで追い掛けられた鴎外ならではの逸話だ。

 では英屋はどこにあったのか? 権堂の歴史に詳しい明行寺の柴田達也住職に尋ねた。 

 「北隣の料亭、現・柏楼や居酒屋のある辺り。文豪は翌28日朝、拙寺を横目に善光寺を参拝。3月1日は牟礼の亀屋に宿泊した」

112-rekishi-0312m2.jpg 当時の古地図を調べたが、英屋は見当たらない。1925(大正14)年刊行の市街・商店地図に「花房屋旅館」を見つけた。「そうです。店名を変えて商売を続けたらしいのですが、ご子孫はよそへ移住された」と柴田住職。

 明行寺門前の南北通りは裏権堂と呼び、飲食店でにぎわっている。花街は男女の愛憎話が限りない。「戦後、我が門前の茶屋を警察署が買い取り、警官寮にしました。ところが、評判の美人芸者を警官が奪い合い、ついにピストルを撃つ騒ぎに」。古老が語り伝える乱射事件は、戦後の駐留軍絶対支配下の混乱が背景にある。

 「県議会政治は夜半、この紅灯の街で行われた」と戦前の新聞記事が伝える。やんごとなき名士たちの醜聞や乱暴狼藉の数々は知る人ぞ知る。

 柴田住職は親鸞上人を説法の要にしている。「白蓮(仏)は泥田があってこそ咲くのです...拙寺も泥中の蓮のような存在...」「親鸞の教えは難しくない。この世は夫婦が原点。家庭を大切にすることに尽きます」

 本堂前には石製の五重塔があり、基壇石には著名置き屋や人気芸妓の名がずらり。親鸞の愛妻・恵信尼こそ薄幸の遊女らの夢だったのだろう。

 市内の名家、数百戸が檀家だ。創建は室町時代までさかのぼる。古文書には「明行寺の森」との字句が残り、2000坪(6600平方メートル)以上の寺域を誇った。花街に巨大な森があったことに驚く。
(2011年3月12日号掲載)


 
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