
鴎外の信越出張の任務は徴兵行政の指導。東大医学部を8番の成績で卒業し、陸軍医官になったばかりの超エリートだ。手当も潤沢だったはず。本来なら、本陣だった大門町の藤屋旅館に泊まるべきなのに、なぜ色茶屋に?
当時、成績3番までの同級生は即ドイツ留学生になったが、「なんと、我輩は不合格!」。秀才だった鴎外にとっては、生まれて初めての挫折だったろう。善光寺門前で"精進落とし"をしたらしい。後にドイツで遊び過ぎ、エリス嬢に日本まで追い掛けられた鴎外ならではの逸話だ。
では英屋はどこにあったのか? 権堂の歴史に詳しい明行寺の柴田達也住職に尋ねた。
「北隣の料亭、現・柏楼や居酒屋のある辺り。文豪は翌28日朝、拙寺を横目に善光寺を参拝。3月1日は牟礼の亀屋に宿泊した」

明行寺門前の南北通りは裏権堂と呼び、飲食店でにぎわっている。花街は男女の愛憎話が限りない。「戦後、我が門前の茶屋を警察署が買い取り、警官寮にしました。ところが、評判の美人芸者を警官が奪い合い、ついにピストルを撃つ騒ぎに」。古老が語り伝える乱射事件は、戦後の駐留軍絶対支配下の混乱が背景にある。
「県議会政治は夜半、この紅灯の街で行われた」と戦前の新聞記事が伝える。やんごとなき名士たちの醜聞や乱暴狼藉の数々は知る人ぞ知る。
柴田住職は親鸞上人を説法の要にしている。「白蓮(仏)は泥田があってこそ咲くのです...拙寺も泥中の蓮のような存在...」「親鸞の教えは難しくない。この世は夫婦が原点。家庭を大切にすることに尽きます」
本堂前には石製の五重塔があり、基壇石には著名置き屋や人気芸妓の名がずらり。親鸞の愛妻・恵信尼こそ薄幸の遊女らの夢だったのだろう。
市内の名家、数百戸が檀家だ。創建は室町時代までさかのぼる。古文書には「明行寺の森」との字句が残り、2000坪(6600平方メートル)以上の寺域を誇った。花街に巨大な森があったことに驚く。
(2011年3月12日号掲載)