
江戸時代に領地の湯田中で入浴した松代(真田藩)の殿様の母堂たちも同じ感想だったようだ。「良いことを思いついた。温泉を樽で松代の御殿に運んでもらいたい。薪で再度沸かしたらどうじゃ」。びっくりしたのは、湯田中と松代を結ぶ街道沿いで荷役を担当する村々だ。
鳩首会談の結論として、伝馬の背に温泉をくみいれた樽を振り分けて運ぶことになった。途中、いてついた峠道は馬のひづめが滑るので、樽一つを4人掛かりで運んだ。
「運んできた湯は香りが失せて不満じゃ...」
「ならば母上、湯田中の本陣までご足労を」
代々の藩主・幸専、幸貫、幸教らは一行数百人規模の「巡廻湯治」と呼ぶ行事を度々行った。朝昼晩と源泉掛け流しの湯を堪能しても、母堂らは退屈した。「近くの山中、金倉井牧(かなぐらいのまき)に不思議な石仏がございます。疫病よけの霊験あらたかとか...」。母堂らが実際に足を運んだかどうか確証はないが、この石仏=写真(『湯田中のあゆみ』から)=は湯田中の歴史を語る"宝物"だ。高さ170センチ、ふくよかな笑みを浮かべる弥勒菩薩だ。
古代の官牧「信濃十六牧」が有名だが、鎌倉時代には幕府の記録「吾妻鏡」所載の「二十八牧」も有名だった。その一つが金倉井牧で、国が支配する官牧(かんぼく)が私牧化する過程で現れた。石仏の胸には「卍」が刻印され、光背には「大治五年(1130)-願主安応聖人大和末光」とある。

松代藩主の母堂たちの発想は独創ではない。かの徳川家康も温泉好きで、京都への往復の際、箱根や伊豆に長逗留した。箱根には温泉を江戸城に運ぶ組合ができ、温泉奉行まで駐在した。「天下の険」を重い温泉樽を運んだ苦労は想像に余る。
(2011年3月19日号掲載)