記事カテゴリ:

113 弥勒菩薩 〜地中からそそり立つ石仏〜

113-rekishi-0319p.jpg 温泉不況も深刻らしいが、歴史と伝統を誇る老舗温泉地は別格だ。「スーパー銭湯もいいけれど、肌触りはやっぱり野沢、渋、湯田中、上林だわ」。遠くに嫁いだ叔母たちが帰郷したときのせりふだ。

 江戸時代に領地の湯田中で入浴した松代(真田藩)の殿様の母堂たちも同じ感想だったようだ。「良いことを思いついた。温泉を樽で松代の御殿に運んでもらいたい。薪で再度沸かしたらどうじゃ」。びっくりしたのは、湯田中と松代を結ぶ街道沿いで荷役を担当する村々だ。

 鳩首会談の結論として、伝馬の背に温泉をくみいれた樽を振り分けて運ぶことになった。途中、いてついた峠道は馬のひづめが滑るので、樽一つを4人掛かりで運んだ。

 「運んできた湯は香りが失せて不満じゃ...」
 「ならば母上、湯田中の本陣までご足労を」

 代々の藩主・幸専、幸貫、幸教らは一行数百人規模の「巡廻湯治」と呼ぶ行事を度々行った。朝昼晩と源泉掛け流しの湯を堪能しても、母堂らは退屈した。「近くの山中、金倉井牧(かなぐらいのまき)に不思議な石仏がございます。疫病よけの霊験あらたかとか...」。母堂らが実際に足を運んだかどうか確証はないが、この石仏=写真(『湯田中のあゆみ』から)=は湯田中の歴史を語る"宝物"だ。高さ170センチ、ふくよかな笑みを浮かべる弥勒菩薩だ。

 古代の官牧「信濃十六牧」が有名だが、鎌倉時代には幕府の記録「吾妻鏡」所載の「二十八牧」も有名だった。その一つが金倉井牧で、国が支配する官牧(かんぼく)が私牧化する過程で現れた。石仏の胸には「卍」が刻印され、光背には「大治五年(1130)-願主安応聖人大和末光」とある。

113-rekishi-0319m.jpg 韓国の史跡で、この弥勒菩薩とそっくりの石仏を拝見したことがある。弥勒信仰は仏教の要で、衆生すべてを救ってくれるのは数十億年後という。そのため半身はまだ地中にある。地中からそそり立つ石柱に霊力を感じるのは原始宗教に連なる。地中から湧き出る温泉も神の仕業であった。

 松代藩主の母堂たちの発想は独創ではない。かの徳川家康も温泉好きで、京都への往復の際、箱根や伊豆に長逗留した。箱根には温泉を江戸城に運ぶ組合ができ、温泉奉行まで駐在した。「天下の険」を重い温泉樽を運んだ苦労は想像に余る。
(2011年3月19日号掲載)

 
足もと歴史散歩